はハンケチで額の汗をぬぐって、「かまいませんでしょうか。こんどあれを連れて、いちどゆっくりお礼にあがりましょう」
私は飛び上るほど、ぎょっとした。いいえ、もう、それには、とはげしく拒否して、私は言い知れぬ屈辱感に身悶《みもだ》えしていた。
けれども、お巡りは、朗かだった。
「子供がねえ、あなた、ここの駅につとめるようになりましてな、それが長男です。それから男、女、女、その末のが八つでことし小学校にあがりました。もう一安心。お慶も苦労いたしました。なんというか、まあ、お宅のような大家にあがって行儀見習いした者は、やはりどこか、ちがいましてな」すこし顔を赤くして笑い、「おかげさまでした。お慶も、あなたのお噂、しじゅうして居《お》ります。こんどの公休には、きっと一緒にお礼にあがります」急に真面目《まじめ》な顔になって、「それじゃ、きょうは失礼いたします。お大事に」
それから、三日たって、私が仕事のことよりも、金銭のことで思い悩み、うちにじっとして居れなくて、竹のステッキ持って、海へ出ようと、玄関の戸をがらがらあけたら、外に三人、浴衣《ゆかた》着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のように美しく並んで立っていた。お慶の家族である。
私は自分でも意外なほどの、おそろしく大きな怒声を発した。
「来たのですか。きょう、私これから用事があって出かけなければなりません。お気の毒ですが、またの日においで下さい」
お慶は、品のいい中年の奥さんになっていた。八つの子は、女中のころのお慶によく似た顔をしていて、うすのろらしい濁った眼でぼんやり私を見上げていた。私はかなしく、お慶がまだひとことも言い出さぬうち、逃げるように、海浜へ飛び出した。竹のステッキで、海浜の雑草を薙《な》ぎ払い薙ぎ払い、いちどもあとを振りかえらず、一歩、一歩、地団駄踏むような荒《すさ》んだ歩きかたで、とにかく海岸伝いに町の方へ、まっすぐに歩いた。私は町で何をしていたろう。ただ意味もなく、活動小屋の絵看板見あげたり、呉服屋の飾窓を見つめたり、ちえっちえっと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁《ささや》く声が聞えて、これはならぬと烈《はげ》しくからだをゆすぶっては、また歩き、三十分ほどそうしていたろうか、私はふたたび私の家へとって返した。
うみぎしに出て、私は立止った。見よ、前方に平和の図がある。
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