から町中のひとたちと知合いになってしまったのに何の不思議もなかった筈である。
 彼はなおも街をぶらぶら歩きながら、誰かれとなくすべてのひとと目札を交した。運わるく彼の挨拶がむこうの不注意からそのひとに通じなかったときや、彼が昨晩ほね折って貼りつけたばかりの電柱のビラが無慙《むざん》にも剥《は》ぎとられているのを発見するときには、ことさらに仰山なしかめつらをするのであった。やがて彼は、そのまちでいちばん大きい本屋にはいって、鶴が売れるかと、小僧に聞いた。小僧は、まだ一部も売れんです、とぶあいそに答えた。小僧は彼こそ著者であることを知らぬらしかった。彼はしょげずに、いやこれから売れると思うよ、となにげなさそうに予言して置いて、本屋を立ち去った。その夜、彼は、流石に幾分わずらわしくなった例の会釈を繰り返しつつ、学校の寮に帰って来たのである。
 それほど輝かしい人生の門出の、第一夜に、鶴は早くも辱かしめられた。
 彼が夕食をとりに寮の食堂へ、ひとあし踏みこむや、わっという寮生たちの異様な喚声を聞いた。彼等の食卓で「鶴」が話題にされていたにちがいないのである。彼はつつましげに伏目をつかいながら、
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