もうひとつの名詞を忘れてゐる。傑作の幻影といふ重大な名詞を!
男は奇妙な決心をした。彼の部屋の押入をかきまはしたのである。その押入の隅には、彼が十年このかた、有頂天な歡喜をもつて書き綴つた千枚ほどの原稿が曰くありげに積まれてあるのださうである。それを片つぱしから讀んでいつた。ときどき頬をあからめた。二日かかつて、それを全部讀みをへて、それから、まる一日ぼんやりした。そのなかの「通信」といふ短篇が頭にのこつた。それは、二十六枚の短篇小説であつて、主人公が困つてゐるとき、どこからか差出人不明の通信が來てその主人公をたすける、といふ物語であつた。男が、この短篇にことさら心をひかれたわけは、いまの自分こそ、そんなよい通信を受けたいものだと思つたからであらう。これを、なんとかしてうまく書き直してごまかさうと決心したのである。
まづ書き直さねばいけないところは、この主人公の職業である。いやはや。主人公は新作家なのである。かう直さうと思つた。さきに文豪をこころざして、失敗して、そのとき第一の通信。つぎに革命家を夢みて、敗北して、そのとき第二の通信。いまは、サラリイマンになつて家庭の安樂といふこと
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