の通信を受けとるまでの描冩は、そつくり舊稿を書きうつしてもいいくらゐなのであつた。男は、煙草を二三本つづけざまに吸つてから、自信ありげにペンをつまみあげた。にやにやと笑ひだしたのである。これはこの男のひどく困つたときの仕草らしい。彼はひとつの難儀をさとつたのである。文章についてであつた。舊稿の文章は、たけりたけつて書かれてゐる。これはどうしたつて書き直さねばなるまい。こんな調子では、ひともおのれも樂しむことができない。だいいち、ていさいがわるい。めんだうくさいが、これは書き改めよう。虚榮心のつよい男はさう思つて、しぶしぶ書き直しはじめた。

 わかい時分には、誰しもいちどはこんな夕を經驗するものである。彼はその日のくれがた、街にさまよひ出て、突然おどろくべき現實を見た。彼は、街を通るひとびとがことごとく彼の知合ひだつたことに氣づいた。師走ちかい雪の街は、にぎはつてゐた。彼はせはしげに街を往き來するひとびとへいちいち輕い會釋をして歩かねばならなかつた。とある裏町の曲り角で思ひがけなく女學生の一群と出逢つたときなど、彼はほとんど帽子をとりさうにしたほどであつた。
 彼はそのころ、北方の或る
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