曜の午後あたり、主人公は縁側へ出て、煙草をくゆらしてゐる。そこへ、ほんたうに風とともに一葉の手紙が、彼の手許へひらひら飛んで來た。「彼はそれに眼をとめた。妻がふるさとの彼の父へ林檎が着いたことを知らせにしたためた手紙であつた。投げて置かないで、すぐ出すといい。さう呟きつつ、ふと首をかしげた。ああ。樣といふ字のこの不器用なくづしかたに彼は見覺えがあつたのである。」このやうな空想的な物語を不自然でなく書くのには、燃える情熱が要るらしい。こんな奇遇の可能を作者自身が、まじめに信じてゐなければいけないのだ。できるかどうか、とにかくやつてみやう。男は、いきほひこんで古本屋にはひつたのである。
 ここの古本屋には、「チエホフ書翰集」と「オネーギン」がある筈だ。この男が賣つたのだから。彼はいま、その二册を讀みかへしたく思つて、この古本屋へ來たわけである。「オネーギン」にはタチアナのよい戀文がある。二册とも、まだ賣れずにゐた。さきに「チエホフ書翰集」を棚からとりだして、そちこち頁をひつくりかへしてみたが、あまり面白くなかつた。劇場とか病氣とかいふ言葉にみちみちてゐるのであつた。これは「風の便り」の文獻
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