への手前をつくろひ、ときどきこんなふうに登校をよそふのであつた。男には、こんな世間ていを氣にする俗な一面もあつたわけである。またこの男は、どうやら自分の妻にさへ、ていさいをとりつくろつてゐるやうである。その證據には、彼の妻は、彼がほんたうに學校へ出てゐるものだと信じてゐるらしいのだ。妻は、まへにも假定して置いたやうに、いやしい育ちの女であるから、まづ無學だと推測できる。男は、その妻の無學につけこみ、さまざまの不貞を働いてゐると見てよい。けれども、だいたいは愛妻家の部類なのである。なぜと言ふに、彼は妻を安心させるために、ときたま嘘を吐くのである。輝かしい未來を語る。
 その日、彼は外出して、すぐ近くの友人の家を訪れた。この友人は、獨身者の洋畫家であつて、彼とは中學校のとき同級であつたとか。うちが財産家なので、ぶらぶら遊んでゐる。人と話をしながら眉をしじゆうぴりぴりとそよがせるのが自慢らしい。よくある型の男を想像してもらひたい。その友人の許へ、彼は訪れたのである。彼は、もともとこの友人をあまり好きではないのである。さう言へば、彼は、彼のほかの二三の友人たちをもたいして好いてはゐないのであるが、ことにこの友人が、相手をいらいらさせる特種の技倆を持つてゐるので、彼はことにも好きになれないのださうである。彼がでもこの友人を、けふ訪問したのは、まづ手近なところから彼の歡喜をわけてやらうといふ心からにちがひない。この男は、いま、幸福の豫感にぬくぬくと温まつてゐるらしいが、そんなときには、人は、どこやら慈悲深くなるものらしい。洋畫家は在宅してゐた。彼は、この洋畫家と對座して、開口一番、彼の小説のことを話して聞かせた。おれはかういふ小説を書きたいと思つてゐる、とだいたいのプランを語つて、うまく行けば賣れるかも知れないよ、書きだしはこんな工合ひだ、と彼はたつたいま書いて來た五六行の文章を、頬をあからめながらひくく言ひだしたのである。彼は、いつでも自分の文章をすべて暗記してゐるのださうである。洋畫家は、れいの眉をふるはせつつ、それはいいと吃るやうにして言つた。それだけでたくさんなのに、要らないことをせかせか、つぎからつぎとしやべりはじめた。虚無主義者の神への揶揄であるとか、小人の英雄への反抗であるとか、それから、彼にはいまもつてなんのことやら譯がわからぬのであるが、觀念の幾何學的構成であ
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