につき疑ひ惱んで、そのとき第三の通信。こんなふうに、だいたいの見とほしをつけて置く。主人公を、できるだけ文學臭から遠ざけること。さうして革命家をこころざしてからは、文學のブの字も言はせぬこと。自分がそのやうな境遇にあつたとき、心から欲しいと思つた手紙なり葉書なり電報なりを、事實、主人公が受けとつたことにして書くのだ。これは樂しみながら書かねば損である。甘さを恥かしがらずに平氣な顏をして書かう。男は、ふと、「ヘルマンとドロテア」といふ物語を思ひ合せた。つぎつぎと彼を襲ふあやしい妄念を、はげしく首振つて迫ひ拂ひつつ、男はいそいで原稿用紙にむかつた。もつと小さい小さい原稿用紙だつたらいいなと思つた。自分にも何を書いてゐるのか判らぬくらゐにくしやくしやと書けたらいいなと思つた。題を「風の便り」とした。書きだしもあたらしく書き加へた。かう書いた。
 ――諸君は音信をきらひであらうか。諸君が人生の岐路に立ち、哭泣すれば、どこか知らないところから風とともにひらひら机上へ舞ひ來つて、諸君の前途に何か光を投げて呉れる、そんな音信をきらひであらうか。彼は仕合せものである。いままで三度も、そのやうな胸のときめく風の便りを受けとつた。いちどは十九歳の元旦。いちどは二十五歳の早春。いまいちどは、つい昨年の冬。ああ。ひとの幸福を語るときの、ねたみといつくしみの交錯したこの不思議なよろこびを、君よ知るや。十九歳の元旦のできごとから物語らう。

 そこまで書いて、男は、ひとまづぺンを置いた。やや意に滿ちたやうであつた。さうだ、この調子で書けばいいのだ。やはり小説といふものは、頭で考へてばかりゐたつて判るものではない。書いてみなければ。男は、しみじみさう心のうちで呟き、さうしてたいへんたのしかつたといふ。發見した、發見した。小説は、やはりわがままに書かねばいけないものだ。試驗の答案とは違ふのである。よし。この小説は唄ひながら少しづつすすめてゆかう。けふは、ここまでにして置くのだ。男は、もいちどそつと讀みかへしてみてから、その原稿を押入のなかに仕舞ひ込み、それから、大學の制服を着はじめた。男は、このごろたえて學校へ行かないのであるが、それでも一週間に一二度づつ、かうして制服を着て、そはそは外出するのである。彼等夫婦は或る勤人の二階の六疊と四疊半との二間を借りて住ひしてゐるのであつて、男はその勤人の家族
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