になり得ない。傲岸不遜のこの男は、つぎに「オネーギン」を手にとつて、その戀文の條を搜した。すぐ搜しあてた。彼の本であつたのだから。「わたしがあなたにお手紙を書くそのうへ何をつけたすことがいりませう。」なるほど、これでいいわけだ。簡明である。タチアナは、それから、神樣のみこころ、夢、おもかげ、囁き、憂愁、まぼろし、天使、ひとりぼつち、などといふ言葉を、おくめんもなく並べたててゐる。さうしてむすびには、「もうこれで筆をおきます。讀み返すのもおそろしい、羞恥の念と、恐怖の情で、消えもいりたい思ひがします。けれども私は、高潔無比のお心をあてにしながら、ひと思ひに私の運を、あなたのお手にゆだねます。タチアナより。オネーギン樣。」こんな手紙がほしいのだ。はつと氣づいて卷を閉ぢた。危險だ。影響を受ける。いまこれを讀むと害になる。はて。また書けなくなりさうだ。男は、あたふたと家へかへつて來たのである。
 家へ歸り、いそいで原稿用紙をひろげた。安樂な氣持で書かう。甘さや通俗を氣にせず、らくらくと書きたい。ことに彼の舊稿「通信」といふ短篇は、さきにも言つたやうに、謂はば新作家の出世物語なのであるから、第一の通信を受けとるまでの描冩は、そつくり舊稿を書きうつしてもいいくらゐなのであつた。男は、煙草を二三本つづけざまに吸つてから、自信ありげにペンをつまみあげた。にやにやと笑ひだしたのである。これはこの男のひどく困つたときの仕草らしい。彼はひとつの難儀をさとつたのである。文章についてであつた。舊稿の文章は、たけりたけつて書かれてゐる。これはどうしたつて書き直さねばなるまい。こんな調子では、ひともおのれも樂しむことができない。だいいち、ていさいがわるい。めんだうくさいが、これは書き改めよう。虚榮心のつよい男はさう思つて、しぶしぶ書き直しはじめた。

 わかい時分には、誰しもいちどはこんな夕を經驗するものである。彼はその日のくれがた、街にさまよひ出て、突然おどろくべき現實を見た。彼は、街を通るひとびとがことごとく彼の知合ひだつたことに氣づいた。師走ちかい雪の街は、にぎはつてゐた。彼はせはしげに街を往き來するひとびとへいちいち輕い會釋をして歩かねばならなかつた。とある裏町の曲り角で思ひがけなく女學生の一群と出逢つたときなど、彼はほとんど帽子をとりさうにしたほどであつた。
 彼はそのころ、北方の或る
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