の最中であったのだが、知らせの花火の音を聞いているうちに我慢出来なくなり、非常に困ったのである。嫂も、あの時、針仕事をしていたのだそうであるが、花火の音を聞いたら、針仕事を続けることが出来なくなって、困ってしまったそうである。兄は、私たちの述懐を傍で聞いていて、
「おれは、泣かなかった。」と強がったのである。
「そうでしょうか。」
「そうかなあ。」嫂も、私も、てんで信用しなかった。
「泣きませんでした。」兄は、笑いながら主張した。
 その兄が、いま、そっと眼鏡をはずしたのである。私は噴き出しそうなのを怺《こら》えて、顔をそむけ、見ない振りをした。
 兄は、京橋の手前で、自動車から降りた。
 銀座は、たいへんな人出であった。逢う人、逢う人、みんなにこにこ笑っている。
「よかった。日本は、もう、これでいいのだよ。よかった。」と兄は、ほとんど一歩毎に呟いて、ひとり首肯《うなず》き、先刻の怒りは、残りなく失念してしまっている様子であった。ずるい弟は、全く蘇生の思いで、その兄の後を、足が地につかぬ感じで、ぴょんぴょん附いて歩いた。
 A新聞社の前では、大勢の人が立ちどまり、ちらちら光って走る電光ニュウスの片仮名を一字一字、小さい声をたてて読んでいる。兄も、私も、その人ごみのうしろに永いこと立ちどまり、繰り返し繰り返し綴《つづ》られる同じ文章を、何度でも飽きずに読むのである。
 とうとう兄は、銀座裏の、おでんやに入った。兄は私にも酒を、すすめた。
「よかった。これで、もう、いいのだ。」兄は、そう言ってハンケチで顔の汗を、やたらに拭いた。
 おでんやでも、大騒ぎであった。モオニングの紳士が、ひどくいい機嫌ではいって来て、
「やあ、諸君、おめでとう!」と言った。
 兄も笑顔で、その紳士を迎えた。その紳士は、御誕生のことを聞くや、すぐさまモオニングを着て、近所にお礼まわりに歩いたというのである。
「お礼まわりは、へんですね。」と私は、兄に小声で言ったら、兄は酒を噴き出した。
 日本全国、どんな山奥の村でも、いまごろは国旗を建て皆にこにこしながら提燈行列をして、バンザイを叫んでいるのだろうと思ったら、私は、その有様が眼に見えるようで、その遠い小さい美しさに、うっとりした。
「皇室典範に拠れば、――」と、れいの紳士が大声で言いはじめた。
「皇室典範とは、また、大きく出たじゃないか。」こん
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