。みんな客間に集って、母は、林檎《りんご》の果汁をこしらえて、五人の子供に飲ませている。末弟ひとり、特別に大きいコップで飲んでいる。
退屈したときには、皆で、物語の連作をはじめるのが、この家のならわしである。たまには母も、そのお仲間入りすることがある。
「何か、無いかねえ。」長兄は、尊大に、あたりを見まわす。「きょうは、ちょっと、ふうがわりの主人公を出してみたいのだが。」
「老人がいいな。」次女は、卓の上に頬杖《ほおづえ》ついて、それも人さし指一本で片頬を支えているという、どうにも気障《きざ》な形で、「ゆうべ私は、つくづく考えてみたのだけれど、」なに、たったいま、ふと思いついただけのことなのである。「人間のうちで、一ばんロマンチックな種属は老人である、ということがわかったの。老婆は、だめ。おじいさんで無くちゃ、だめ。おじいさんが、こう、縁側にじっとして坐っていると、もう、それだけで、ロマンチックじゃないの。素晴らしいわ。」
「老人か。」長兄は、ちょっと考える振りをして、「よし、それにしよう。なるべく、甘い愛情ゆたかな、綺麗《きれい》な物語がいいな。こないだのガリヴァ後日物語は、少し陰惨すぎた。僕は、このごろまた、ブランドを読み返しているのだが、どうも肩が凝る。むずかしすぎる。」率直に白状してしまった。
「僕にやらせて下さい。僕に、」ろくろく考えもせず、すぐに大声あげて名乗り出たのは末弟である。がぶがぶ大コップの果汁を飲んで、やおら御意見開陳。「僕は、僕は、こう思いますねえ。」いやに、老成ぶった口調だったので、みんな苦笑した。次兄も、れいのけッという怪しい笑声を発した。末弟は、ぶうっとふくれて、
「僕は、そのおじいさんは、きっと大数学者じゃないか、と思うのです。きっと、そうだ。偉い数学者なんだ。もちろん博士さ。世界的なんだ。いまは、数学が急激に、どんどん変っているときなんだ。過渡期が、はじまっている。世界大戦の終りごろ、一九二〇年ごろから今日まで、約十年の間にそれは、起りつつある。」きのう学校で聞いて来たばかりの講義をそのまま口真似してはじめるのだから、たまったものでない。「数学の歴史も、振りかえって見れば、いろいろ時代と共に変遷して来たことは確かです。まず、最初の階段[#底本では「段階」と表記]は、微積分学の発見時代に相当する。それからがギリシャ伝来の数学に対する
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