デネ」のお土産をもらった。きのうの朝から、時々、マア坊は、エプロンの下に何か隠しているようなふうで、意味ありげに廊下をうろついて、ひょっとしたら、あのエプロンの下に僕へのお土産を忍ばせてあるのではあるまいかとも思っていたのだが、図々《ずうずう》しくこちらから近寄って手を差しのべ、「どうしたの?」などと逆襲されると、これはまた大恥辱であるから、僕は知らん顔をしていたのだ。けれども、やっぱり、それは僕への贈物であったのだ。
昨夜の七時半の摩擦は、約一週間ぶりでマア坊の番に当って、マア坊は左手に金盥《かなだらい》をかかえ、右手をエプロンの下に隠し、にやりにやりと笑いながらやって来て、僕のベッドの側にしゃがみこんで、
「意地わる。取りに来ないんだもの。けさから何度も廊下で待っていたのに。」
そう言ってベッドの引出しをあけ、素早くエプロンの下の品物をその中に滑り込ませて、ぴったり引出しをしめ、
「言っちゃ、いやよ。誰にも、言っちゃいやよ。」
僕は寝ながら二度も三度も小さく首肯いた。摩擦に取りかかって、
「ひばりの摩擦は、久しぶりね。なかなか番が廻って来ないんだもの。お土産を渡そうとしても、どうしたらいいのか、困ったわ。」
僕は自分の首のところに手をやって、結ぶ真似《まね》をして、ネクタイか? という意味の無言の質問をすると、
「ううん。」と下唇《したくちびる》を突き出して笑って否定し、「ばかねえ。」と小声で言った。
実際、ばかだ。僕には、背広さえ無いのに、何だってまた、ネクタイなんて妙なものを考えたのだろう。われながら、おかしい。或いは、あの小さい懐中鏡から無意識にネクタイを聯想《れんそう》したのかも知れない。
5
僕は、こんどは右手で、ものを書く真似をして、万年筆か? という意味の質問をしてみた。実に僕は勝手な男だ。僕の万年筆がこの頃はどうも具合が悪いので、あたらしいのが欲しいという意識が潜在していたらしく、ついこんな時ひょいと出る。僕は内心、自分の図々しさに呆《あき》れたよ。
「ううん。」マア坊は、やっぱり首を横に振って否定する。まるでもう、見当がつかない。
「ちょっと、地味かも知れないけど、人にやったりしないでね。お店に、たった一つ残っていたのよ。飾りも、ちっとも上等でないけど、ここを出てから持って歩いてね。ひばりは紳士だから、きっと要るわよ。」
いよいよ、わからなくなった。まさか、ステッキじゃあるまい。
「とにかく、ありがとう。」僕は寝返りを打ちながら言った。
「何を言ってるの。ぼんやりねえ、この子は。さっさと早くなおって、いなくなるといい。」
「おおきに、お世話だ。いっそ、ここで、死んでやろうかね。」
「あら、だめよ。泣くひとがあるわ。」
「マア坊かい?」
「しょってるわ。泣くもんですか。泣くわけがないじゃないの。」
「そうだろうと思った。」
「あたしが泣かなくたって、ひばりには、泣いてくれる人がいくらでもあるわ。」ちょっと考えてから、「三人、いや、四人あるわ。」
「泣くなんて、意味が無い。」
「あるわよ、意味があるわよ。」と強く言い張って、それから僕の耳元に口を寄せて、「竹さんでしょう? キントトでしょう? たまねぎでしょう? カクランでしょう?」と一人々々左手の指を折って数え上げて、「わあい。」と言って笑った。
「カクランも泣くのか。」僕も笑った。
その夜の摩擦はたのしかった。僕も以前のように、マア坊に対して固くなるような事はなく、いまでは何だか皆を高所から見下しているような涼しい余裕が出来ていて、自由に冗談も言えるし、これもつまり、女に好かれたいなどという息ぐるしい慾望《よくぼう》を、この半箇月ほどの間に全部あっさり捨て去ったせいかも知れぬが、自分でも不思議なほど、心に少しのこだわりも無く楽しく遊んだのだ。好くも好かれるも、五月の風に騒ぐ木の葉みたいなものだ。なんの我執も無い。あたらしい男は、またひとつ飛躍をしました。
その夜、摩擦がすんで、報告の時間に、アメリカの進駐軍がいよいよこの地方にも来るという知らせを、拡声機を通して聞きながら、ベッドの引出しをさぐり、マア坊の贈物を取り出し、包をほどいた。
三寸四方くらいの小さい包で、中には、シガレットケースが入っていた。「ここを出てから持って歩いてね、ひばりは紳士だから、きっと要るわよ」という先刻の不可解な言葉の意味も、これでわかった。
それを箱から出して、ちょとひっくりかえしたりして見ているうちに、僕は何だかひどく悲しくなって来た。うれしくないのだ。あながち、世間のニュウスのせいばかりでも無かったようだ。
6
それは、ステンレッスというのか、ケーキナイフなどに使ってあるクロームのような金属で出来た銀色の、平たいケースである。蓋《ふた》には薔薇《ばら》の蔓《つる》を図案化したような、こんがらかった細い黒い線の模様があって、その蓋の縁には小豆色のエナメルみたいなものが塗られてある。このエナメルが無ければよいのに、このエナメルの不要な飾りのために、マア坊の言うように、「ちょっと地味」だし、また「ちっとも上等でなく」なっている。でもまあ、せっかくマア坊が買って来てくれたのだから、とにかく大事にしまって置くべきであろう。
どうも、しかし、愉快でない。もらって、こんな事を言うのはいけないが、本当にちっとも嬉《うれ》しくないのだ。よその女のひとから、ものをもらうのは、はじめての経験であるが、実に妙に胸苦しくていけないものだ。はなはだ後味のわるいものだ。僕は、引出しの奥の一ばん底に、ケースを隠した。早く忘れてしまいたい。
ケースには、僕も、少し閉口して、持てあましの形だが、しかし、こんな経緯に依《よ》って、マア坊のよさを少しでも君にわかってもらいたくて、以上、御報告の一文をしたためた次第だ。どうだね、少しはマア坊を見直したかね。やっぱり、竹さんのほうがいいかね。御感想をお聞かせ下さい。
きょうは、つくしのベッドに、隣りの「白鳥の間」の固パンが移って来た。姓名は須川五郎《すがわごろう》、二十六歳。法科の学生だそうで、なかなかの人気者らしい。色浅黒く、眉《まゆ》が太く、眼はぎょろりとしてロイド眼鏡をかけて、鷲鼻《わしばな》で、あまり感じはよくないが、それでも、助手さんたちから、大いに騒がれているのだそうだ。どうも、男から見ていやなやつほど、女に好かれるようだ。固パンの出現に依って、「桜の間」の空気も、へんにしらじらしいものになって来た。かっぽれは、既に少し固パンに対して敵意を抱いているようだ。きょうの夕食前の摩擦の時にも、助手さんたちは固パンに向って英語を色々たずねて、
「ねえ、教えてよ。ごめんなさいね、ってのは英語でどういうの。」
「アイ、ベッグ、ユウア、パアドン。」固パンは、ひどく気取って答える。
「覚えにくいわ。もっと簡単な言いかたが無いの?」
「ヴェリイ、ソオリイ。」実に気取って言う。
「それじゃあね。」と別な助手さんが、「どうぞお大事にね、ってことを何というの?」
「プリイズ、テッキャア、オブ、ユアセルフ。」 take care を、テッキャアと発音する。なんとも、どうも、きざな事であった。
助手さんたちは、それでも大いに感心して聞いている。かっぽれには、僕以上に固パンの英語が癇《かん》にさわるらしく、小さい声でれいの御自慢の都々逸《どどいつ》、
『末は博士か大臣か、よしな書生にゃ金が無い』とかいうのを歌ったりして、とにかく、さかんに固パンを牽制《けんせい》しようとあせっている様子であった。
僕はしかし、元気だ。きょう体重をはかったら、四百|匁《もんめ》ちかく太っていた。断然、好調である。
九月十六日
衛生について
1
こないだから、女の事ばかり書いて、同室の諸先輩に就いての報告を怠っていたようだから、きょうは一つ「桜の間」の塾生《じゅくせい》たちの消息をお伝え申しましょう。きのう「桜の間」では喧嘩《けんか》があった。とうとう、かっぽれが固パンに敢然と挑戦《ちょうせん》したのだ。
原因は梅干である。
それが甚《はなは》だ、どうにもややこしい話なのである。かっぽれには、かねて、瀬戸の小鉢《こばち》があって、それに梅干をいれて、ごはんの度に、ベッドの下の戸棚《とだな》から取出しては梅干をつついていた。けれども、このごろ、その梅干にかびが生えはじめた。かっぽれは、これは容《い》れ物の悪いせいではあるまいかと考えた。小鉢の蓋《ふた》がよく合わぬので、そこから細菌が忍び入り、このようにかびが生える結果になったのに違いないと考えた。かっぽれは、なかなか綺麗《きれい》好きなひとなんだ。どうにも気になる。何かよい容れ物があるまいかと、かっぽれは前から思案にくれていたというような按配《あんばい》なのだ。ところが、きのうの朝食の時、お隣りの固パンがやはり、食事の度毎《たびごと》に持出していたらっきょうの瓶《びん》が、ちょうど空いたのを、かっぽれは横目で見とどけ、あれがいいと思った。口も大きいし、そうして、しっかり栓《せん》も出来る。いかなる細菌も、あの瓶の中には忍び込む事が出来まい。もう空いたのだから、固パンも気軽く貸してくれるだろう。固パンに頭を下げるのは癪《しゃく》だが、でも、細菌を防ぐためには、どうしてもあのらっきょうの瓶が必要である。衛生を重んじなければならぬ。そう思って、かっぽれは、食事がすんでから、おそるおそる固パンに空瓶の借用を申し出た。
固パンは、かっぽれの顔をまっすぐに見て、
「こんなものを、どうするのです。」
その言い方が、かっぽれに、ぐっと来たというのである。前からこの二人の間には暗雲が低迷していたのである。かっぽれは、この健康道場第一等の色男を以《もっ》て任じていたのに、最近に到《いた》って固パンがめきめき色男の評判を高めて、かっぽれの影は薄くなり、むしゃくしゃしていた矢先だったのである。
「こんなもの? 須川さん、そんな言い方をしてもいいのですか。」かっぽれの言い方も妙である。
「なぜ、いけないのです。」固パンは、にこりともしない。どうにも堅くるしく、気取っている男なのである。
「わかりませんかねえ。」かっぽれは、少しおされ気味になって、にやにやと無理に笑って、「私があなたから、まさか、豚のしっぽを借りようとしたわけではなし、こんなもの、とにべもなく言われては、私の立つ瀬が無くなります。」いよいよ妙だ。
「僕は豚のしっぽなんて事は言いません。」
「わからない人だね。」かっぽれは、少し凄《すご》くなった。「かりにお前さんが、豚のしっぽと言わなくたって、こちとらには、ぴんと来るんだから仕様がねえじゃないか。馬鹿《ばか》にしなさんな。大学生だって左官だって、同じ日本国の臣民じゃないか。よくもおれを、豚のしっぽみたいに扱いましたね。おれが豚のしっぽなら、お前さんは、とかげのしっぽだ。一視同仁というものだ。おれには学はねえが、それでも衛生を尊ぶ事だけは、知っているのだ。人間、衛生を知らなけれゃ、犬畜生と同じわけのものなんだ。」
何が何だか、さっぱりわけのわからない口説《くぜつ》になって来た。
2
固パンは一向それに取合わず、両手を頭のうしろに組んで、仰向にベッドの上に寝ころがった。度胸のある男のように見えた。かっぽれは、ベッドの上にあぐらを掻《か》いて、からだを前後左右にゆすぶり、腕まくりするやら、自分の膝《ひざ》を自分のこぶしでぽんぽん叩《たた》くやら、しきりにやきもきして、
「え、おい、聞いているのですか、そこな大学生。まさか柔道を使やしねえだろうな。大学生には時たまあれを使うやつがあるから恐れいる。あいつぁ、ごめんだぜ。いいかい、はっきり言って置くけど、この道場は、柔道の道場でもなければ、また、色男修行の道場でもないんですぜ。場長の清盛《きよもり》も、こないだの講話で言っていた。諸君は選手である。結核の必ず全治するという証拠を、日本全国に向って示す
前へ
次へ
全19ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング