るのだ。つくしの事も、僕の事も、問題じゃないんだ。ただ、自分の美しさ、あわれさに陶然としていたいのだ。無邪気なふりを装っているけれども、どうしてなかなか虚栄心が強いのだから、誰にも負けたくないだろうし、そうして、ひどい慾張《よくば》りなんだから、ひとのものは何でも欲しいだろうし、マア坊の策略くらいは僕にだって看破できる。

     6

 マア坊は、あの、つくしの手紙を僕に見せて、やっぱり少し威張りたかったのではあるまいか。けれども僕がその手紙をひどく馬鹿にしているのを、マア坊は敏感に察して、たちまち態度をかえ、泣くやら、押すやら、あらぬ事を口走る結果になったのに違いない。すみれほどの誇りどころか、あのひとの自尊心の高さは、女王さまみたいだ。とても、いたわりきれるものでない。僕とマア坊といい仲だって事をみんなが言い囃《はや》しているとか言っていたが、ばかばかしい。僕は今まで、マア坊の事で人から、ひやかされた事は一回も無い。マア坊ひとりが騒いでいるのだ。マア坊には、たしなみのない、本質的な育ちのいやしさがある。本当に、越後《えちご》の言うように、母親がいけない人だったのかも知れない。落ちついて考えるに随《したが》って、腹が立って来た。マア坊には、道場の助手としての資格が無いと思った。道場は神聖なところだ。みんな一心に結核征服を念じて朝夕の鍛錬に精進しているところなのだ。もう一度、マア坊があんな露骨な言動を示したならば、僕は断然、組長の竹さんに訴えて、マア坊を道場から追放してもらおうと覚悟した。
 そのように覚悟をきめたら、やっと僕は、さっきの洗面所に於ける悪夢に就いて、そんなに、こだわりを感じないようになった。
 あれは、悪い夢だ。悪い夢は、人生につながりの無いものだ。君を殴った夢を見たって、僕はその翌日、君におわびを言いには行かない。僕はそんな感傷的な宗教家、または詩人の心を持ってはいない。あたらしい男は、ややこしい事は大きらいだ。
 夢には、こだわらぬつもりだが、しかし、その洗面所の悪夢の翌日、つまり、けさの、未明に、僕はもう一つ夢を見た。そうして、これは、いい夢だ。いい夢は、忘れたくない。人生に、何かつながりを持たせたい。これは、是非とも君にも知らせてあげたい。竹さんの夢だ。竹さんは、いい人だね。けさ、つくづくそう思った。あんな人は、めったにいない。君が竹さんに熱を上げるのも無理はないと思った。君は流石《さすが》に詩人だけあって、勘がいい。眼が高い。偉い。君があまり、竹さんに熱を上げるので、寝込まれたりしても困ると思って、その後、竹さんに就いての御報告を控えめにしていたが、そんな心配は全然不要だという事が、けさ、はっきりわかった。
 竹さんを、どんなに好いても、竹さんはその人を寝込ませたり堕落させたりなんかしない人だ。どうか、竹さんを、もっと、うんと好いてくれ。僕も、君に負けずに竹さんを、もっとうんと信頼するつもりだ。それにつけても、マア坊は馬鹿な女だねえ。竹さんとはまるで逆だ。全くお説の通り、映画女優の出来損いそのものであった。きのう、あれから、マア坊が夜の八時の摩擦に、自分の番でも無いのに「桜の間」にやって来て、あの、お昼の事などはきれいに忘れてしまったように、固パンや、かっぽれを相手にきゃあきゃあ騒ぎ、そのとき、僕の摩擦は竹さんであったが、竹さんはれいの通り、無言でシャッシャッとあざやかな手つきで摩擦して、マア坊たちのつまらぬ冗談にも時々にっこり笑い、マア坊がつかつかと僕たちの傍へやって来て、
「竹さん、手伝いましょうか。」と乱暴な、ふざけた口調で言っても、
「おおきに、」と軽く会釈《えしゃく》して、「すぐ、すみます。」と澄まして答える。

     7

 僕は、こんな具合いに落ちついて、しゃんとしている竹さんを好きなのである。僕に下手な好意を示したりする時の竹さんは、ぶざまで、見られたものでない。マア坊が、くるりと廻《まわ》れ右してまた固パンのほうへ行った時、僕は、
「マア坊って、きざな人だね。」と小声で竹さんに言った。
「芯《しん》は、いい子や。」と竹さんは、いつくしむような口調で、ぽつんと答えた。
 やはり竹さんはマア坊より、人間としての格が上かな? とその時ひそかに思った。竹さんは、さっさと摩擦をすませて、金盥をかかえ、隣りの「白鳥の間」へ摩擦の応援に出かけて、そのあとへ、マア坊がにやにや笑ってまたもや僕のベッドを訪れ、小さい声で、
「竹さんに、何か言った。たしかに言った。あたしは、知ってる。」
「きざな子だって言ったんだ。」
「意地わる! どうせ、そうよ。」案外、怒らぬ。「ね、あれ、持ってる?」両手の指で四角の形を作って見せる。
「ケースかい?」
「うん。どこに、しまってあるの?」
「そのへんの引出しだ。返してもいいぜ。」
「あら、いやだわ。一生、持っててね。お邪魔でしょうけど。」妙に、しんみり言って、それから、いきなり大声で、「やっぱり、ひばりの所から一ばんお月まさがよく見える。かっぽれさん、ちょっと来て! ここで並んでお月さまを拝もうよ。明月や、なんて俳句をよもうよ。いかが?」
 どうも、さわがしい。
 その夜は、そんな事で、格別の異変も無く寝に就いたが、夜明けちかく、ふと眼がさめた。廊下の残置燈《ざんちとう》の光で部屋はぼんやり明るい。枕元の時計を見ると、五時すこし前だった。外は、まだ、まっくらのようだ。窓から誰かが見ている。マア坊! とすぐ頭にひらめいた。白い顔だ。たしかに笑って、すっと消えた。僕は起きてカアテンをはねのけて見たが、何も無い。へんてこな気持だった。寝呆《ねぼ》けたのかしら。いくらマア坊が滅茶《めちゃ》な女だって、まさか、こんな時間に。僕も案外、ロマンチストだ、と苦笑してベッドにもぐったが、どうにも気になる。しばらくして、遠くの洗面所のほうから、しゃっしゃっというお洗濯《せんたく》でもしているような水の音が幽《かす》かに聞えて来た。
 あれだ! と思った。どういう理由でそう思ったのか、わからない。さっき笑って消えた人は、あれだ。たしかに、あそこに、いま、いるのだ。そう思うと、我慢が出来なくなって、そっと起きて、足音を忍ばせて廊下に出た。
 洗面所には、青いはだかの電球が一つ灯《とも》っている。のぞいて見ると、絣《かすり》の着物に白いエプロンをかけて、丸くしゃがみ込んで、竹さんが、洗面所の床板を拭《ふ》いていた。手拭《てぬぐい》をあねさんかぶりにして、大島のアンコに似ていた。振りかえって僕を見て、それでも黙って床板を拭いている。顔がひどく痩《や》せ細って見えた。道場の人たちは悉《ことごと》く、まだ、しずかに眠っている。竹さんは、いつもこんなに早く起きて掃除をはじめているのであろうか。僕は、うまく口がきけず、ただ胸をわくわくさせて竹さんの拭き掃除の姿を見ていた。白状するが、僕はこの時、生れてはじめての、おそろしい慾望に懊悩《おうのう》した。夜の明ける直前のまっくらい闇《やみ》には、何かただならぬ気配がうごめいているものだ。

     8

 どうも、洗面所は、僕には鬼門である。
「竹さん、さっき、」声が咽喉《のど》にひっからまる。喘《あえ》ぎ喘ぎ言った。「庭へ出た?」
「いいえ、」振り向いて僕を見て、少し笑い、「ぼんぼん、なにを寝呆けて言ってんのや。ああ、いやらし。裸足《はだし》やないか。」
 気がついてみると、いかにも僕は、はだしであった。あんまり興奮してやって来たので、草履をはくのを忘れていた。
「気のもめる子やな。足、お拭き。」
 竹さんは立ち上り、流しで雑巾《ぞうきん》をじゃぶじゃぶ洗い、それからその雑巾を持って僕の傍《そば》へ来てしゃがんで、僕の右の足裏も、左の足裏も、きゅっきゅと強くこするようにして拭いてくれた。足だけでなく、僕の心の奥の隅《すみ》まで綺麗《きれい》になったような気がした。あの奇妙な、おそろしい慾望も消えていた。僕は、足を拭いてもらいながら竹さんの肩に手を置いて、
「竹さん、これからも、甘えさせてや。」とわざと竹さんみたいな関西|訛《なま》りで言ってみた。
「お淋《さび》しいやろなあ。」と竹さんは少しも笑わず、ひとりごとのように小声で言って、「さ、これ貸したげるさかいな、早く御不浄へ行って来て、おやすみ。」
 竹さんは自分のはいているスリッパを脱いで僕のほうにそろえて差し出した。
「ありがとう。」平気なふうを装ってスリッパをはき、「僕は寝呆けたのかしら。」
「御不浄に起きたのと違うの?」竹さんは、またせっせと床板の拭き掃除をはじめて、おとなびた口調で言った。
「そうなんだけど。」
 まさか、窓の外に女の顔が見えた、なんて馬鹿らしい事は言えない。自分の心が濁っていたから、あんな幻影も見えたのだろう。いやらしい空想に胸をおどらせて、はだしで廊下へ飛び出して来た自分の姿を、あさましく、恥かしく思った。毎日こんな真暗い頃《ころ》に起きて余念なく黙々と拭き掃除している人もあるのに。
 僕は、壁によりかかって、なおもしばらく竹さんの働く姿を眺めて、つくづく人生の厳粛を知らされた。健康とは、こんな姿のものであろうと思った。竹さんのおかげで、僕の胸底の純粋の玉が、さらに爽《さわ》やかに透明なものになったような気がした。
 君、正直な人っていいものだね。単純な人って、尊いものだね。僕はいままで、竹さんの気のよさを少し軽蔑《けいべつ》していたが、あれは間違いだった。さすがに君は眼が高い。とても、マア坊なんかとは較《くら》べものにも何も、なるもんじゃない。竹さんの愛情は、人を堕落させない。これは、たいしたものだ。僕もあんな、正しい愛情の人になるつもりだ。僕は一日一日高く飛ぶ。周囲の空気が次第に冷く澄んで来る。
 男児|畢生《ひっせい》危機一髪とやら。あたらしい男は、つねに危所に遊んで、そうして身軽く、くぐり抜け、すり抜けて飛んで行く。
 こうして考えてみると、秋もまた、わるくないようだ。少し肌寒《はだざむ》くて、いい気持。
 マア坊の夢は悪い夢で、早く忘れてしまいたいが、竹さんの夢は、もしこれが夢であったら、永遠に醒《さ》めずにいてくれるといい。
 のろけなんかじゃあ、ないんだよ。
  十月七日

   固パン


     1

 拝啓。ひどい嵐《あらし》だったね。野分《のわき》というものなのかしら。これでは、アメリカの進駐軍もおどろいているだろう。E市にも、四、五百人来ているそうだが、まだこの辺には、いちども現われないようだ。矢鱈《やたら》におびえて、もの笑いになるな、と場長からの訓辞もあったし、この道場の人たちは、割合いに泰然としている。ただひとり、助手のキントトさんだけ、ちょっとしょんぼりしていて、皆にからかわれている。キントトさんは、二、三日前、雨の中を用事でE市に行って来たそうだが、道場へ帰って夜、皆と一緒に就寝してから、シクシク泣いた。どうしたの? どうしたの? と皆にたずねられて、キントトさんのしゃくり上げながら物語るのを聞けば、おおよそ次の如《ごと》き事情であったという。
 キントトさんは、まちで用事をすまして、帰りのバスを待合所で待っていたら、どしゃ降りの中を、アメリカの空《から》のトラックが走って来て、そうしてどうやら故障を起したらしく、バスの待合所のちょうど前でとまり、運転台から子供のような若いアメリカ兵が二人飛び降り、雨に打たれながら修理にとりかかって、なかなか修理がすまぬ様子で、濡鼠《ぬれねずみ》の姿でいつまでも黙々と機械をいじくり、やがて、キントトさんたちのバスがやって来たが、キントトさんは待合所から走り出て、バスに乗りかけ、その時まるで夢中で、自分の風呂敷《ふろしき》包の中の梨《なし》を一つずつそのアメリカの少年たちに与え、サンキュウという声を背後に聞いてバスの奥に駆《か》け込んだとたんに発車。それだけの事であったが、道場へ帰り着き、次第に落ちついて来ると共に、何とも言えずおそろしく、心配で心配でたまらなくなり、ついに夜、蒲団《
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