りしたような気持で、元気の無い尋ね方をした。
「可愛《かわい》いやろ? 藤娘《ふじむすめ》や。しまっとき。」と姉のような、おとなびた口調で言って立ち去った。
 僕は、ぽかんとした気持だった。少しもうれしくない。人の好意には素直に感奮すべきだと前の日に思いをあらたにした矢先ではあったが、どういうものか、僕には竹さんのこんな好意は有り難くない。それは僕が、この道場に来た当初から変らずに持ちつづけていた感情で、いまさらどうにも動かしがたいのだ。竹さんは、助手の組長で、そうして道場の皆に信頼されている立派な人なのだから、もっと、しっかりしなければならぬ。マア坊なんかとは、わけが違うのだ。こんな、つまらぬ人形なんかを買って来て、藤娘や、可愛いやろ? もないもんだ。
 僕は、ごはんを食べながら、つくづくとお膳の隅の、その藤娘と称する二寸ばかりの高さの竹細工の人形を眺《なが》めたが、見れば見るほど、まずい人形だった。どうも趣味がわるい。これは駅の売店で埃《ほこり》をかぶって店《たな》ざらしになっていたしろものに違いない。気のいい人は、必ず買い物が下手なものだが、竹さんも、どうやら、ごたぶんにもれぬほうらしい。ちょっと不良じみたマア坊なんかのほうが、ずっと気のきいた買い物をする。仕方の無いものだ。僕は、竹細工の始末に窮した。つっかえしてやろうかとさえ思ったが、前の日に、すみれの花くらいのあわれな誇りをこそ大事にいたわってやらなければ、などと殊勝な覚悟を極《き》めた手前もあり、しょんぼりした気持で、その土産はひとまずベッドの引出しにしまい込んで置く事にした。けれども、竹さんの事をあまり書くと、君がまた熱をあげるといけないから、これくらいにして置いて、さて、そのお昼ごはんの後に、僕はとにかくマア坊のお指図どおりに、洗面所へ行ってみた。マア坊は、洗面所の一ばん奥の壁にぴったり背中をつけてこちら向きに立って、くすくす笑っていた。僕はちらと不愉快なものを感じた。
「君は、時々こんな事をするんだろう。」と、自分にも意外な言葉が出た。
「え? どうして?」と、少し笑いながら眼をまんまるくして僕の顔を見上げた。僕は、まぶしかった。
「塾生を時々ここへ、」ひっぱり込んで、と言いかけたのだが、流石《さすが》にそれはひどく下品な言葉のように思われたから、口ごもった。
「そう? そんなら、よしましょう。」と軽く言って、お辞儀するように上体を前にこごめて歩きかけた。
「手紙を持って来たよ。」僕は手紙を差出した。
「ありがとう。」とちっとも笑わずに受取って、「ひばりも、やっぱり、だめね。」
「なぜ、だめなんだ。」僕のほうが受け身になった。
「あたしを、そんな女だと思っていたのね。ひばり、」と顔を蒼《あお》くして僕の顔をまっすぐに見て、「恥ずかしくない?」
「恥ずかしい。」僕は、あっさりかぶとを脱いだ。「やいたんだ。」
 マア坊は、金歯を光らせて笑った。

     3

「僕、その手紙を読んだよ。」大いにとっちめてやるつもりであったのだが、竹さんからつまらぬ藤娘なんてお土産をもらって、出鼻をくじかれ、マア坊に対してうしろめたいものさえ感じて意気があがらず、憂鬱《ゆううつ》にちかい気持でこの洗面所に来てみると、マア坊が、あんまりなまめかしかったので、男子として最も恥ずべきやきもちの心が起り、つい、あらぬ事を口走って、ただちにマア坊に糺明《きゅうめい》せられ、今は、ほとんど駄目《だめ》になった。
「全部読んだよ。面白かった。つくしって、いいひとだね。僕は、好きになっちゃった。」心にもない、あさはかなお追従《ついしょう》ばかり言っている。
「でも、意外だわ。こんな手紙。」マア坊は仔細《しさい》らしく首をひねり、便箋《びんせん》をひらいて眺めた。
「うん、僕もちょっと意外に思った。」僕の場合、あんまり下手で意外だったのだ。
「まったく、意外だわ。」マア坊にとっては、いかにも、重大な事らしい。
「君のほうからも、手紙を出したんだろう。」またもや要らない事を言ってしまって、ひやりとした。
「出したわ。」けろりとしている。
 僕は急に面白くなくなった。
「それじゃ君が誘惑したのだ。君は不良少女みたいだ。そんなのを、オタンチンっていうのだ。ミイチャンハアチャンともいうし、チンピラともいうし、また、トッピンシャンともいうんだ。けしからんじゃないか、君は。」と思い切り罵倒《ばとう》してやったが、マア坊はこんどは怒るどころか、げらげら笑い出した。
「まじめに聞いてくれよ。殊《こと》に、つくしには奥さんがある。笑い事じゃないんだぜ。」
「だから、奥さんにお礼状を出したの。つくしが道場を出る時、あたしがまちの駅まで送って行って、その時に奥さんから白足袋を二足いただいたから、あたし、奥さんに礼状を出しといたの。」
「それだけか。」
「それだけよ。」
「なあんだ。」僕は、機嫌を直した。「それだけの事だったのか。」
「ええ、そうよ。それなのに、こんなお手紙を寄こすんだもの、いやで、いやで、身悶《みもだ》えしちゃったわ。」
「何も身悶えしなくたって、いいじゃないか。君は、本当は、つくしを好きなんだろう。」
「好きだわ。」
「なあんだ。」僕は、また面白くなくなって来た。「馬鹿にしていやがる。つまらない。奥さんのある人を好きになったって、仕様が無いじゃないか。あれは仲のよさそうな夫婦だったぜ。」
「だって、ひばりを好きになっても仕様が無いでしょう?」
「何を言ってやがる。話が違うよ。」僕はいよいよ不機嫌になった。「君は不真面目だ。僕は何も君に、好きになってもらおうと思ってやしないよ。」
「ばか、ばか。ひばりは、なんにも知らないのよ。なんにも知らないくせに、ひばりなんかは、」と言いかけて、くるりとうしろを向いてヒイと泣き出した。そうして、それこそ身悶えして、
「あっちへ、行って!」と強く言った。

     4

 僕は出処進退に窮した。口をとがらして洗面所をぶらぶら歩いているうちに、何だか、僕も一緒に泣きたくなって来た。
「マア坊。」と呼ぶ僕の声は、ふるえていた。「そんなに、つくしを好きなのか。僕だって、つくしを好きだよ。あれは、やさしい、いい人だったからな。マア坊が、つくしを好きになるのも無理がないと思うんだ。泣け、泣け、うんと泣け。僕も一緒に泣くぜ。」
 どうしてあんな気障《きざ》な事を言ったのだろう。いま考えてみると夢のような気がする。僕は泣こうと思った。しかし、ちょっと眼頭《めがしら》が熱くなっただけで、涙は一滴も出なかった。僕は眼を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、洗面所の窓からテニスコートの黄ばみはじめた銀杏《いちょう》を黙って眺めていた。
「早く、」いつの間にやらマア坊が、僕の傍《そば》にひっそりと立っていて、「お部屋へお帰り。人に見られると、わるいわ。」と気味のわるいほど静かな、落ちついた口調で言った。
「見られたってかまわない。悪い事をしているわけじゃないんだ。」そう言いながら、僕の胸は妙に躍った。
「とんまねえ、ひばりは。」と僕と並んで洗面所の窓からテニスコートのほうを眺めながら、ひとり言のように、「ひばりが来てから、道場も変っちゃったなあ。なんにも知らないでしょう? ひばりのお父さんて、偉いお方ですってね。場長さんが、いつかそうおっしゃってたわ。世界的な学者ですってね。」
「貧乏なので、世界的なのだ。」ひどく淋《さび》しくなって来た。お父さんとは、もう二箇月も逢《あ》わない。相変らず、障子が震動するほどの大きな音をたてて鼻をかんでいるであろうか。
「血筋がいいのね。ひばりが来たら、道場が本当に、急にあかるくなったわ。みんなの気持も変ってしまった。あんないい子を見たことが無いって、竹さんも言ってた。竹さんはめったに他人の噂《うわさ》なんかしないひとなんだけど、ひばりには夢中なのよ。竹さんだけでなく、キントトだって、たまねぎだって、みんなそうなのよ。でも塾生さんたちにいやな噂を立てられて、ひばりに迷惑がかかるような事になるといけないから、みんな気をつけて、ひばりに近寄らないようにしているのよ。」
 僕は苦笑した。けちくさい愛情だと思った。
「そいつぁ、敬遠というものなんだ。好きなんじゃないんだ。」
「あら、あんなこと。」マア坊は僕の背中を軽く叩《たた》いて、その手をそのままそっと背中に置いた。「あたしは違うのよ。あたしは、ひばりをちっとも好きでないの。だから、こうして二人きりで話したってかまわないのよ。思い違いしないでね。あたしは、――」
 僕はマア坊の傍からそっと離れ、
「せいぜい、つくしと文通するさ。僕は、はっきり言うけど、つくしの手紙の下手さには呆《あき》れた。」
「知ってるわ。下手な手紙だからお見せしたんじゃないの。いい手紙だったら、誰《だれ》が見せるもんか。あたしは、つくしの事など、なんとも思ってやしないわ。そんなに人を馬鹿にするもんじゃないわ。」言葉も態度も別人のように露骨で下品になって来た。「あたしはもう、だめなのよ。あなたは知らないでしょう? とんまだから、気がつかないんだ。あたしは、あなたといい仲だって事を、もう、みんなに言われているのよ。どうするの? そう言われてもいいの?」
 顔を伏せて右肩を突き出し、くすくす笑いながらその肩先で僕をぐいぐい押すのである。

     5

「よせ、よせ。」と僕は言った。こんな時には、それより他に言い方が無いものだ。とんでもない事になったと思った。
「困る? どうなの? ね、この上、また恥をかかすの? ゆうべ、お月さまが、あかるくて、眠れなくて、庭へ出て、それから、ひばりの枕元の、カアテンが、少しあいていたので、のぞいてみたの、知ってる? ひばりは、月の光を浴びて、笑いながら、眠ってたわ。あの寝顔、よかったな。ね、ひばり、どうするの?」
 とうとう壁際《かべぎわ》まで押しつけた。僕は、なんだか、ばからしくなって来た。
「無理だよ。どだい無理だよ。僕は二十なんだ。困るんだ。おい、誰か、こっちへ来るぜ。」ぱたぱたと、洗面所のほうへやって来るスリッパの足音が聞こえる。
「だめねえ、そんなんじゃないのよ。」マア坊は僕から離れて、顔を仰向にして髪を掻《か》き上げ、あははと笑った。顔はお湯からあがり立てみたいに、ぽっと赤かった。
「もう、講話の時間だ。失敬するぜ。僕は、時間におくれるなんて、だらしない事はきらいなんだ。」
 僕は洗面所から走り出た。とたんに、
「竹さんと仲よくしちゃ駄目よ。」とマア坊が、細い声で言った。その声が、一ばん僕の心にしみた。
 どうも、秋は、いけない。
 部屋へ帰ったら、まだ講話は始まらず、かっぽれが、ベッドにひっくりかえって、れいの都々逸《どどいつ》なるものを歌っていた。みちの芝が人に踏まれても朝露によみがえるとかいう意味の、前にも幾度か聞かされた都々逸であるが、その時だけは、いつものような閉口迷惑を感ぜず、素直に耳傾けて拝聴したのだから奇妙なものだ。僕は気が弱くなってしまったのかも知れない。
 やがて講話がはじまり、日支文明の交流という題で、岡木という若い先生が、主として医学の交流に就いて、昔からのいろいろな例証を挙げて具体的にわかり易《やす》く説明して下さった。日本と支那《しな》とは、いつも互いに教え合って進んで来た国だという事が、いまさらの如《ごと》く深く首肯せられ、反省させられるところも多かったが、けれども、それにつけても、僕のきょうの秘密が、どうにも気がかりになって、早くマア坊の事なんか忘れてしまい、以前のような何のくったくも無い模範的な塾生になりたいとつくづく思った。
 いったい、あの、マア坊がいけないのだ。もう少し聡明《そうめい》な女かと思っていたら、案外な、愚かな女だった。さっき、あんな、思い余ったような素振りをいろいろしてみせたが、あれには、何の意味も無いという事は僕だって知っている。僕には馬鹿な自惚《うぬぼ》れは無い。マア坊はいつも自分の事ばかり考えてい
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