燥《しょうそう》などは綺麗に忘れ、ひどく幸福な気持で微笑《ほほえ》んだ。
君、あたらしい時代は、たしかに来ている。それは羽衣のように軽くて、しかも白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のように清冽《せいれつ》なものだ。芭蕉《ばしょう》がその晩年に「かるみ」というものを称えて、それを「わび」「さび」「しおり」などのはるか上位に置いたとか、中学校の福田和尚先生から教わったが、芭蕉ほどの名人がその晩年に於いてやっと予感し、憧憬《しょうけい》したその最上位の心境に僕たちが、いつのまにやら自然に到達しているとは、誇らじと欲《ほっ》するも能《あた》わずというところだ。この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。慾《よく》と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のその風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理窟も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。
けさ、
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