いう話だ。早く細君に死なれて、いまは年頃の娘さんと二人だけの家庭の様子で、その娘さんも一緒に東京からこの健康道場ちかくの山家《やまが》に疎開《そかい》して来ていて、時々この淋《さび》しき父を見舞いに来る。父はたいていむっつりしている。しかし、ふだんは寡言家《かげんか》でも、突如として恐るべき果断家に変ずる事もある。人格は、だいたい高潔らしい。仙骨《せんこつ》を帯びているようなところもあるが、どうもまだ、はっきりはわからない。まっくろい口髭《くちひげ》は立派だが、ひどい近眼らしく、眼鏡の奥の小さい赤い眼は、しょぼしょぼしている。丸い鼻の頭には、絶えず汗の粒が湧《わ》いて出るらしく、しきりにタオルで鼻の頭を強くこすって、その為《ため》に鼻の頭は、いまにも血のしたたり落ちるくらいに赤い。けれども、眼をつぶって何かを考えている時には、威厳がある。案外、偉いひとなのかも知れない。綽名《あだな》は越後獅子《えちごじし》。その由来は、僕にはわからないが、ぴったりしているような感じもする。松右衛門殿も、この綽名をそんなにいやがってもいないようだ。ご自分からこの綽名を申出たのだという説もあるが、はっきり
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