必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない。わしがいま病気で無かったらなあ、いまこそ二重橋の前に立って、天皇陛下万歳! を叫びたい。」
 固パンは眼鏡をはずした。泣いているのだ。僕はこの嵐の一夜で、すっかり固パンを好きになってしまった。男って、いいものだねえ。マア坊だの、竹さんだの、てんで問題にも何もなりゃしない。以上、嵐の燈火と題する道場便り。失敬。
  十月十四日

   口紅


     1

 御返事をありがとう。先日の「嵐《あらし》の夜の会談」に就いての僕の手紙が、たいへん君の御気に召したようで、うれしいと思っている。君の御意見に依《よ》れば、越後獅子《えちごじし》こそ、当代まれに見る大政治家で、或《ある》いは有名な偉い先生なのかも知れないという事であるが、しかし、僕にはそのようには思われない。いまはかえって、このような巷間《こうかん》無名の民衆たちが、正論を吐いている時代である。指導者たちは、ただ泡《あわ》を食って右往左往しているばかりだ。いつまでもこんな具合では、いまに民衆たちから置き去りにされるのは明かだ。総選挙も近く行われるらしいが、へんな演説ばかりしていると、民衆はいよいよ代議士というものを馬鹿にするだけの結果になるだろう。
 選挙と言えば、きょうこの道場に於《お》いて、とても珍妙な事件が起った。きょうのお昼すぎ、お隣りの「白鳥の間」から、次のような回覧板が発行せられた。曰《いわ》く、婦人に参政権を与えられたるは慶賀に堪えざるも、このごろの当道場に於ける助手たちの厚化粧は見るに忍びざるものあり、かくては、参政権も泣きます、仄聞《そくぶん》するに、アメリカ進駐軍も、口紅毒々しき婦人を以《もっ》てプロステチュウトと誤断すという、まさに、さもあるべし、これはひとり当道場の不名誉たるのみならず、ひいては日本婦人全体の恥辱なり云々《うんぬん》とあって、それから、お化粧の目立ちすぎる助手さんの綽名《あだな》が洩《も》れなく列記されてあり、「右六名のうち、孔雀《くじゃく》の扮装《ふんそう》は最も醜怪なり。馬肉をくらいたる孫悟空《そんごくう》の如《ごと》し。われらしばしば忠告を試みたるも、更に反省の色なし。よろしく当道場より追放すべし。」と書添えられていた。
 お隣りの「白鳥の間」には、前から硬骨漢がそろっていて、助手さんたちに人気のある固パンさんなどは、その「白鳥の間」にいたたまらなくなって、こちらの「桜の間」に逃げて来たような按配《あんばい》でもあったのだ。「桜の間」は、越後獅子の人徳のおかげか、まあ、春風駘蕩《しゅんぷうたいとう》の部屋である。こんどの回覧板も、これはひどい、とまず、かっぽれが不承知を称《とな》えた。固パンも、にやりと笑って、かっぽれを支持した。
「ひどいじゃありませんか。」とかっぽれは、越後獅子にも賛意を求めた。「人間は、一視同仁ですからね、追放しなくたっていいと思いますがね。人間の本然の愛というものは、どんな場合にだって忘れられるわけのものじゃないんだ。」
 越後獅子は黙って幽《かす》かに首肯《うなず》いた。
 かっぽれは、それに勢いを得て、
「ね、そういうわけのものでしょう? 自由思想ってのは、そんなケチなものである筈《はず》のわけが無いんだ。そちらの若先生はどうです。私の論は間違ってはいないと思うんだ。」と僕にも同意をうながした。
「でも、お隣りの人たちだって、まさか、本当に追放しようとは思ってないんでしょう? ただ、あの人たちの心意気のほどを皆に示そうとしているんじゃないのかな。」と僕が笑いながら言ったら、
「いや、そんなんじゃない。」とかっぽれは言下に否定して、「どだい、婦人参政権と口紅との間には、致命的な矛盾があるべきわけのものではないと思うんだ。あいつらは、ふだん女にもてねえもんだから、こんな時に、仕返しを仕様とたくらんでいるのに違いない。」と喝破《かっぱ》した。

     2

 そうして、それから、れいの一ばんいいところを言い出し、
「世に大勇と小勇あり、ですからね、あいつらは、小勇というわけのものなんだ。おれの事を、パイパンと言っていやがるんです。かねがね癪《しゃく》にさわっていたんだ。かっぽれという綽名だって、おれはあんまり好きじゃねえのだが、パイパンと言われちゃ、黙って居られねえ。」あらぬ事で激昂《げっこう》して、ベッドから降りて帯をしめ直し、「おれは、この回覧板をたたきかえして来る。自由思想は江戸時代からあるんだ。人間、智仁勇が忘れられないとはここのところだ。じゃ皆さん、私にまかせてくれますね。私はこれを叩《たた》きかえして来るつもりですからね。」顔色が変っている。
「待った、待った。」越後獅子はタオルで鼻の頭を拭《ふ》きながら言った。「あんたが行っちゃいけな
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