ぎ言った。「庭へ出た?」
「いいえ、」振り向いて僕を見て、少し笑い、「ぼんぼん、なにを寝呆けて言ってんのや。ああ、いやらし。裸足《はだし》やないか。」
 気がついてみると、いかにも僕は、はだしであった。あんまり興奮してやって来たので、草履をはくのを忘れていた。
「気のもめる子やな。足、お拭き。」
 竹さんは立ち上り、流しで雑巾《ぞうきん》をじゃぶじゃぶ洗い、それからその雑巾を持って僕の傍《そば》へ来てしゃがんで、僕の右の足裏も、左の足裏も、きゅっきゅと強くこするようにして拭いてくれた。足だけでなく、僕の心の奥の隅《すみ》まで綺麗《きれい》になったような気がした。あの奇妙な、おそろしい慾望も消えていた。僕は、足を拭いてもらいながら竹さんの肩に手を置いて、
「竹さん、これからも、甘えさせてや。」とわざと竹さんみたいな関西|訛《なま》りで言ってみた。
「お淋《さび》しいやろなあ。」と竹さんは少しも笑わず、ひとりごとのように小声で言って、「さ、これ貸したげるさかいな、早く御不浄へ行って来て、おやすみ。」
 竹さんは自分のはいているスリッパを脱いで僕のほうにそろえて差し出した。
「ありがとう。」平気なふうを装ってスリッパをはき、「僕は寝呆けたのかしら。」
「御不浄に起きたのと違うの?」竹さんは、またせっせと床板の拭き掃除をはじめて、おとなびた口調で言った。
「そうなんだけど。」
 まさか、窓の外に女の顔が見えた、なんて馬鹿らしい事は言えない。自分の心が濁っていたから、あんな幻影も見えたのだろう。いやらしい空想に胸をおどらせて、はだしで廊下へ飛び出して来た自分の姿を、あさましく、恥かしく思った。毎日こんな真暗い頃《ころ》に起きて余念なく黙々と拭き掃除している人もあるのに。
 僕は、壁によりかかって、なおもしばらく竹さんの働く姿を眺めて、つくづく人生の厳粛を知らされた。健康とは、こんな姿のものであろうと思った。竹さんのおかげで、僕の胸底の純粋の玉が、さらに爽《さわ》やかに透明なものになったような気がした。
 君、正直な人っていいものだね。単純な人って、尊いものだね。僕はいままで、竹さんの気のよさを少し軽蔑《けいべつ》していたが、あれは間違いだった。さすがに君は眼が高い。とても、マア坊なんかとは較《くら》べものにも何も、なるもんじゃない。竹さんの愛情は、人を堕落させない。これは、たいしたものだ。僕もあんな、正しい愛情の人になるつもりだ。僕は一日一日高く飛ぶ。周囲の空気が次第に冷く澄んで来る。
 男児|畢生《ひっせい》危機一髪とやら。あたらしい男は、つねに危所に遊んで、そうして身軽く、くぐり抜け、すり抜けて飛んで行く。
 こうして考えてみると、秋もまた、わるくないようだ。少し肌寒《はだざむ》くて、いい気持。
 マア坊の夢は悪い夢で、早く忘れてしまいたいが、竹さんの夢は、もしこれが夢であったら、永遠に醒《さ》めずにいてくれるといい。
 のろけなんかじゃあ、ないんだよ。
  十月七日

   固パン


     1

 拝啓。ひどい嵐《あらし》だったね。野分《のわき》というものなのかしら。これでは、アメリカの進駐軍もおどろいているだろう。E市にも、四、五百人来ているそうだが、まだこの辺には、いちども現われないようだ。矢鱈《やたら》におびえて、もの笑いになるな、と場長からの訓辞もあったし、この道場の人たちは、割合いに泰然としている。ただひとり、助手のキントトさんだけ、ちょっとしょんぼりしていて、皆にからかわれている。キントトさんは、二、三日前、雨の中を用事でE市に行って来たそうだが、道場へ帰って夜、皆と一緒に就寝してから、シクシク泣いた。どうしたの? どうしたの? と皆にたずねられて、キントトさんのしゃくり上げながら物語るのを聞けば、おおよそ次の如《ごと》き事情であったという。
 キントトさんは、まちで用事をすまして、帰りのバスを待合所で待っていたら、どしゃ降りの中を、アメリカの空《から》のトラックが走って来て、そうしてどうやら故障を起したらしく、バスの待合所のちょうど前でとまり、運転台から子供のような若いアメリカ兵が二人飛び降り、雨に打たれながら修理にとりかかって、なかなか修理がすまぬ様子で、濡鼠《ぬれねずみ》の姿でいつまでも黙々と機械をいじくり、やがて、キントトさんたちのバスがやって来たが、キントトさんは待合所から走り出て、バスに乗りかけ、その時まるで夢中で、自分の風呂敷《ふろしき》包の中の梨《なし》を一つずつそのアメリカの少年たちに与え、サンキュウという声を背後に聞いてバスの奥に駆《か》け込んだとたんに発車。それだけの事であったが、道場へ帰り着き、次第に落ちついて来ると共に、何とも言えずおそろしく、心配で心配でたまらなくなり、ついに夜、蒲団《
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