れども、そんな驚きも、十分間くらい経《た》ったら消滅してしまった。何も感じなくなった。痲痺[#「痲痺」は底本では「痳痺」]してしまって平気になった。僕はそれに気がついて、人間の馴致《じゅんち》性というのか、変通性というのか、自身のたより無さに呆《あき》れてしまった。最初のあの新鮮なおののきを、何事に於《お》いても、持ちつづけていたいものだ、とその時つくづく思ったのだが、この道場の生活に対しても、僕はもうそろそろいい加減な気持を抱きはじめているのではなかろうか、とマア坊に怒られてはっと思い当ったというわけなのだ。マア坊にだって誇りはあるのだ。すみれの花くらいの小さい誇りかも知れないが、そんな、あわれな誇りをこそ大事にいたわってやらなければならぬ。僕はいま、マア坊の友情を無視したという形である。つくしからの内緒の手紙を、僕に見せるという事は、或《ある》いは、マア坊は今では、つくし以上に僕に好意を寄せているのだという、マア坊のもったいない胸底をあかしてくれた仕草なのかも知れない。いや、それほど自惚《うぬぼ》れて考えなくても、とにかく僕は、マア坊の信頼を裏切ったのは確かだ。僕が以前ほどマア坊を好きでなくなったからと言ったって、それは、僕のわがままだ。僕は人の好意にさえ狎れてしまっている。僕は、シガレットケースをもらった事さえ忘れている。よろしくない。実に悪い。
「がんばれよ。」と呼びかけられたら、その好意に感奮して、大声で、
「ようしきた!」と答えなければならぬ。
3
あやまちを改むるにはばかる事なかれだ。新しい男は、出直すのも早いんだ。洗面所から出て、部屋へ帰る途中、炭部屋の前でマア坊と運よく逢《あ》った。
「あの手紙は?」と僕はすぐに尋ねた。
遠いところを見ているような、ぼんやりした眼つきをして、黙って首を振った。
「ベッドの引出し?」ひょっとしたらマア坊は、さっき手拭いを取りに行った時に、あの手紙を、僕のベッドの引出しにでも、ほうり込んで来たのではあるまいかと思って聞いてみたのだが、やはり、ただ首を振るだけで返辞をしない。女は、これだからいやだ。よそから借りて来た猫《ねこ》みたいだ。勝手にしろ、とも思ったが、しかし、僕にはマア坊のあわれな誇りをいたわらなければならぬ義務がある。僕は、それこそ、まさしく、猫撫で声を出して、
「さっきは、ごめんね。あの歌
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