そうして午後の三時|頃《ごろ》、僕たちが屈伸鍛錬をはじめていたら、こいしい人と別れて来たひとらしくもなく、にこにこ笑いながら帰って来て、部屋々々を廻《まわ》って約束のお土産を塾生たちにくばって歩いていた。
いまのような手不足の時代には、かなりの暮しをしている家の娘でも、やはり家を出て働かなければならぬ様子だが、マア坊なども、どうやらその組らしく、仕事も遊び半分のようだし、そのくせポケットの温かなせいか、いつもなかなか気前がよく、それがまた塾生たちの人気の原因の一つになっているようで、こんな時のお土産だって、かなり贅沢《ぜいたく》だ。お土産は、どこでどんな具合いに入手したのか、一寸に二寸くらいのおもちゃの鏡だ。裏に映画女優の写真が貼《は》られてある。昔は、こんなものは、駄菓子屋《だがしや》の景物などに、ただでくれたしろものだが、いまはこんなものでも、買うとなると決して安くないだろう。どこかの駄菓子屋かおもちゃ屋のストックを、そんなに数十枚も買って帰ったのかも知れないが、とにかく、いかにもマア坊らしい思いつきのお土産だ。塾生たちには、裏の映画女優の写真がいたくお気に召した様子で、たいへんな騒ぎ方だ。かっぽれも一枚もらった。僕は、女からものをもらうのは、いやだから、はじめからお土産の強迫などもしなかったし、また、みんなと同じおもちゃの懐中鏡一枚の恩恵に浴したところで、つまらない事だと思っていたし、マア坊が僕たちの部屋へやって来て、かっぽれに鏡を手渡し、
「かっぽれさんは、この女優を知ってる?」
「知らねえが、べっぴんだ。マア坊にそっくりじゃないか。」
「あら、いやだ。ダニエル・ダリュウじゃないの。」
「なんだ、アメリカか。」
「ちがうわよ、フランスのひとよ。ひところ東京では、ずいぶん人気があったのよ。知らないの?」
「知らねえ。フランスでも何でも、とにかくこれは返すよ。毛唐《けとう》はつまらねえ。日本の女優の写真とかえてくれねえか。あい願わくば、そうしてもらいたい。こいつは、向うの小柴《こしば》のひばりさんにでもあげるんだね。」
「ぜいたく言ってる。特別に、あなただけに差上げるのよ。ひばりには、いや。意地わるだから、いや。」
「どうだかね。ではまあ、いただいて置きましょう。ダニエ?」
「ダニエルよ。ダニエル・ダリュウ。」
そんな二人の会話を聞いて、僕はにこりともせず屈
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