わなければよかったと思った。

     7

「そんな時代に、なったかなあ。」花宵先生は、タオルで鼻の頭を拭《ふ》いて、仰向けに寝ころがり、「とにかく早くここから出なくちゃいけない。」
「そうです、そうです。」
 僕は、この道場へ来てはじめて、その時、ああ早く頑丈《がんじょう》なからだになりたいとひそかに焦慮したよ。もったいない事だが、天の潮路を、のろくさく感じた。
「君たちは別だ。」と先生は、僕のそんな気持を、さすがに敏感に察したらしく、「あせる事はない。落ちついてここで生活していさえすれば、必ず、なおる。そうして立派に日本再建に役立つ事が出来る。でも、こっちはもう、としをとってるし、」と言いかけた時に、娘さんがどうやら活花を完成させたらしく、
「まえよりかえって、わるくなったようですわ。」と明るい口調で言い、父のベッドに近寄り、こんどは極めて小さい声で、「お父さん! また、愚痴を言ってるのね。いまどき、そんなの、はやらないわよ。」ぷんぷん怒っている。
「わが述懐もまた世に容《い》れられずか。」越後はそう言って、それでも、ひどく嬉しそうに、うふうふと笑った。
 僕もさっきの不覚の焦燥《しょうそう》などは綺麗に忘れ、ひどく幸福な気持で微笑《ほほえ》んだ。
 君、あたらしい時代は、たしかに来ている。それは羽衣のように軽くて、しかも白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のように清冽《せいれつ》なものだ。芭蕉《ばしょう》がその晩年に「かるみ」というものを称えて、それを「わび」「さび」「しおり」などのはるか上位に置いたとか、中学校の福田和尚先生から教わったが、芭蕉ほどの名人がその晩年に於いてやっと予感し、憧憬《しょうけい》したその最上位の心境に僕たちが、いつのまにやら自然に到達しているとは、誇らじと欲《ほっ》するも能《あた》わずというところだ。この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。慾《よく》と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のその風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理窟も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。
 けさ、
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