。返してもいいぜ。」
「あら、いやだわ。一生、持っててね。お邪魔でしょうけど。」妙に、しんみり言って、それから、いきなり大声で、「やっぱり、ひばりの所から一ばんお月まさがよく見える。かっぽれさん、ちょっと来て! ここで並んでお月さまを拝もうよ。明月や、なんて俳句をよもうよ。いかが?」
どうも、さわがしい。
その夜は、そんな事で、格別の異変も無く寝に就いたが、夜明けちかく、ふと眼がさめた。廊下の残置燈《ざんちとう》の光で部屋はぼんやり明るい。枕元の時計を見ると、五時すこし前だった。外は、まだ、まっくらのようだ。窓から誰かが見ている。マア坊! とすぐ頭にひらめいた。白い顔だ。たしかに笑って、すっと消えた。僕は起きてカアテンをはねのけて見たが、何も無い。へんてこな気持だった。寝呆《ねぼ》けたのかしら。いくらマア坊が滅茶《めちゃ》な女だって、まさか、こんな時間に。僕も案外、ロマンチストだ、と苦笑してベッドにもぐったが、どうにも気になる。しばらくして、遠くの洗面所のほうから、しゃっしゃっというお洗濯《せんたく》でもしているような水の音が幽《かす》かに聞えて来た。
あれだ! と思った。どういう理由でそう思ったのか、わからない。さっき笑って消えた人は、あれだ。たしかに、あそこに、いま、いるのだ。そう思うと、我慢が出来なくなって、そっと起きて、足音を忍ばせて廊下に出た。
洗面所には、青いはだかの電球が一つ灯《とも》っている。のぞいて見ると、絣《かすり》の着物に白いエプロンをかけて、丸くしゃがみ込んで、竹さんが、洗面所の床板を拭《ふ》いていた。手拭《てぬぐい》をあねさんかぶりにして、大島のアンコに似ていた。振りかえって僕を見て、それでも黙って床板を拭いている。顔がひどく痩《や》せ細って見えた。道場の人たちは悉《ことごと》く、まだ、しずかに眠っている。竹さんは、いつもこんなに早く起きて掃除をはじめているのであろうか。僕は、うまく口がきけず、ただ胸をわくわくさせて竹さんの拭き掃除の姿を見ていた。白状するが、僕はこの時、生れてはじめての、おそろしい慾望に懊悩《おうのう》した。夜の明ける直前のまっくらい闇《やみ》には、何かただならぬ気配がうごめいているものだ。
8
どうも、洗面所は、僕には鬼門である。
「竹さん、さっき、」声が咽喉《のど》にひっからまる。喘《あえ》ぎ喘
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