はじめは、やられますよ。ヨオゼフ・シゲティは、まだですか?」
「それは聞きました」私は悲しい気持ちであった。
「ルフラン附きの文章か」つまらなそうにそう言って、スケッチブックをぱちんと閉じた。「どうもお待たせしました。すこし歩きましょうよ。お話したいことがあるのです」
きょうは貘の夫婦をあきらめよう。そうして、私にとって貘よりもさらにさらに異様に思われるこの佐竹という男の話に、耳傾けよう。水禽の大鉄傘を過ぎて、おっとせいの水槽のまえを通り、小山のように巨大なひぐまの、檻《おり》のまえにさしかかったころ、佐竹は語りはじめた。まえにも何回となく言って言い馴れているような諳誦《あんしょう》口調であって、文章にすればいくらか熱のある言葉のようにもみえるが実際は、れいの嗄《しわが》れた陰気くさい低声でもってさらさら言い流しているだけのことなのである。
「馬場は全然だめです。音楽を知らない音楽家があるでしょうか。僕はあいつが音楽について論じているのをついぞ聞いたことがない。ヴァイオリンを手にしたのを見たことがない。作曲する? おたまじゃくしさえ読めるかどうか。馬場の家では、あいつに泣かされている
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