らしい小さなあくびをした。
「じゃあ、僕は失敬するよ」佐竹は小声でそう呟き、金側の腕時計を余程ながいこと見つめて何か思案しているふうであったが、「日比谷へ新響を聞きに行くんだ。近衛もこのごろは商売上手になったよ。僕の座席のとなりにいつも異人の令嬢が坐るのでねえ。このごろはそれがたのしみさ」言い終えたら、鼠のような身軽さでちょこちょこ走り去った。
「ちえっ! 菊ちゃん、ビイルをおくれ。おめえの色男がかえっちゃった。佐野次郎、呑まないか。僕はつまらん奴を仲間にいれたなあ。あいつは、いそぎんちゃくだよ。あんな奴と喧嘩したら、倒立《さかだ》ちしたってこっちが負けだ。ちっとも手むかいせずに、こっちの殴った手へべっとりくっついて来る」急に真剣そうに声をひそめて、「あいつ、菊の手を平気で握りしめたんだよ。あんなたちの男が、ひとの女房を易々と手にいれたりなどするんだねえ。インポテンスじゃないかと思うんだけれど。なに、名ばかりの親戚《しんせき》で僕とは血のつながりなんか絶対にない。――僕は菊のまえであいつと議論したくねえんだ。はり合うなんて、いやなこった。――君、佐竹の自尊心の高さを考えると、僕はいつで
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