た爛熟の雰囲気をからだじゅうに感じながら、ひとりしてビイルを呑んでいたのであるが、ふと気がついてみたら、馬場がみどりいろの派手な背広服を着ていつの間にか私のうしろのほうに坐っていたのである。れいの低い声で、「きょうは八十八夜」そうひとこと呟いたかと思うともう、てれくさくてかなわんとでもいうようにむっくり立ちあがって両肩をぶるっと大きくゆすった。八十八夜を記念しようという、なんの意味もない決心を笑いながら固めて、二人、浅草へ呑みに出かけることになったのであるが、その夜、私はいっそく飛びに馬場へ離れがたない親狎《しんこう》の念を抱くにいたった。浅草の酒の店を五六軒。馬場はドクタア・プラアゲと日本の楽壇との喧嘩《けんか》を噛んで吐きだすようにしながらながながと語り、プラアゲは偉い男さ、なぜって、とまた独りごとのようにしてその理由を呟いているうちに、私は私の女と逢いたくて、居ても立ってもいられなくなった。私は馬場を誘った。幻燈を見に行こうと囁《ささや》いたのだ。馬場は幻燈を知らなかった。よし、よし。きょうだけは僕が先輩です。八十八夜だから連れていってあげましょう。私はそんなてれかくしの冗談を言
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