三十まえだ。おう、だいじなことを言い忘れた。ひどい猫脊《ねこせ》で、とんとせむし、――君、ちょっと眼をつぶってそんなふうの男を想像してごらん。ところが、これは嘘なんだ。まるっきり嘘なんだ。おおやま師。装っているのだ。それにちがいないんだ。なにからなにまで見せかけなのだ。僕の睨《にら》んだ眼に狂いはない。ところどころに生え伸びたまだらな無精鬚《ぶしょうひげ》。いや、あいつに無精なんてあり得ない。どんな場合でもあり得ない。わざとつとめて生やした鬚だ。ああ、僕はいったい誰のことを言っているのだ! ごらん下さい、私はいまこうしています、ああしていますと、いちいち説明をつけなければ指一本うごかせず咳ばらい一つできない。いやなこった! あいつの素顔は、眼も口も眉毛もないのっぺらぼうさ。眉毛を描いて眼鼻をくっつけ、そうして知らんふりをしていやがる。しかも君、それをあいつは芸にしている。ちぇっ! 僕はあいつを最初|瞥見《べっけん》したとき、こんにゃくの舌で顔をぺろっと舐《な》められたような気がしたよ。思えば、たいへんな仲間ばかり集って来たものさ。佐竹、太宰、佐野次郎、馬場、ははん、この四人が、ただ黙って立ち並んだだけでも歴史的だ。そうだ! 僕はやるぞ。なにも宿命だ。いやな仲間もまた一興じゃないか。僕はいのちをことし一年限りとして Le Pirate に僕の全部の運命を賭《か》ける。乞食になるか、バイロンになるか。神われに五ペンスを与う。佐竹の陰謀なんて糞《くそ》くらえだ!」ふいと声を落して、「君、起きろよ。雨戸をあけてやろう。もうすぐみんなここへ来るよ。きょうこの部屋で海賊の打ち合せをしようと思ってね」
私は馬場の興奮に釣られてうろうろしはじめ、蒲団を蹴《け》って起きあがり、馬場とふたりで腐りかけた雨戸をがたぴしこじあけた。本郷のまちの屋根屋根は雨でけむっていた。
ひるごろ、佐竹が来た。レンコオトも帽子もなく、天鵞絨《ビロード》のズボンに水色の毛糸のジャケツを着けたきりで、顔は雨に濡れて、月のように青く光った不思議な頬の色であった。夜光虫は私たちに一言の挨拶もせず、溶けて崩れるようにへたへたと部屋の隅に寝そべった。
「かんにんして呉れよ。僕は疲れているんだ」
すぐつづいて太宰が障子をあけてのっそりあらわれた。ひとめ見て、私はあわてふためいて眼をそらした。これはいけないと思った
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