もぞっとするよ」ビイルのコップを握ったまま、深い溜息をもらした。「けれども、あいつの画だけは正当に認めなければいけない」
 私はぼんやりしていた。だんだん薄暗くなって色々の灯でいろどられてゆく上野広小路の雑沓の様子を見おろしていたのである。そうして馬場のひとりごととは千里万里もかけはなれた、つまらぬ感傷にとりつかれていた。「東京だなあ」というたったそれだけの言葉の感傷に。
 ところが、それから五六日して、上野動物園で貘《ばく》の夫婦をあらたに購入したという話を新聞で読み、ふとその貘を見たくなって学校の授業がすんでから、動物園に出かけていったのであるが、そのとき、水禽《みずどり》の大鉄傘ちかくのベンチに腰かけてスケッチブックへ何やらかいている佐竹を見てしまったのである。しかたなく傍へ寄っていって、軽く肩をたたいた。
「ああ」と軽くうめいて、ゆっくり私のほうへ頸をねじむけた。「あなたですか。びっくりしましたよ。ここへお坐りなさい。いま、この仕事を大急ぎで片づけてしまいますから、それまで鳥渡《ちょっと》、待っていて下さいね。お話したいことがあるのです」へんによそよそしい口調でそう言って鉛筆を取り直し、またスケッチにふけりはじめた。私はそのうしろに立ったままで暫《しばら》くもじもじしていたが、やがて決心をつけてベンチへ腰をおろし、佐竹のスケッチブックをそっと覗いてみた。佐竹はすぐに察知したらしく、
「ペリカンをかいているのです」とひくく私に言って聞かせながら、ペリカンの様様の姿態をおそろしく乱暴な線でさっさと写しとっていた。「僕のスケッチをいちまい二十円くらいで、何枚でも買って呉れるというひとがあるのです」にやにやひとりで笑いだした。「僕は馬場みたいに出鱈目《でたらめ》を言うことはきらいですねえ。荒城の月の話はまだですか?」
「荒城の月、ですか?」私にはわけがわからなかった。
「じゃあ、まだですね」うしろむきのペリカンを紙面の隅に大きく写しながら、「馬場がむかし、滝|廉太郎《れんたろう》という匿名で荒城の月という曲を作って、その一切の権利を山田耕筰に三千円で売りつけた」
「それが、あの、有名な荒城の月ですか?」私の胸は躍った。
「嘘ですよ」一陣の風がスケッチブックをぱらぱらめくって、裸婦や花のデッサンをちらちら見せた。「馬場の出鱈目は有名ですよ。また巧妙ですからねえ。誰でも
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