来るのだ。それはほんとうに、おそろしい小説だ。たとえば、帽子をあみだにかぶっても気になるし、まぶかにかぶっても落ちつかないし、ひと思いに脱いでみてもいよいよ変だという場合、ひとはどこで位置の定着を得るかというような自意識過剰の統一の問題などに対しても、この小説は碁盤のうえに置かれた碁石のような涼しい解決を与えている。涼しい解決? そうじゃない。無風。カットグラス。白骨。そんな工合いの冴《さ》え冴《ざ》えした解決だ。いや、そうじゃない。どんな形容詞もない、ただの、『解決』だ。そんな小説はたしかにある。けれども人は、ひとたびこの小説を企てたその日から、みるみる痩せおとろえ、はては発狂するか自殺するか、もしくは唖者《おし》になってしまうのだ。君、ラディゲは自殺したんだってね。コクトオは気がちがいそうになって日がな一日オピアムばかりやってるそうだし、ヴァレリイは十年間、唖者になった。このたったひとつの小説をめぐって、日本なんかでも一時ずいぶん悲惨な犠牲者が出たものだ。現に、君、――」
「おい、おい」という嗄れた呼び声が馬場の物語の邪魔をした。ぎょっとして振りむくと、馬場の右脇にコバルト色の学生服を着た背のきわめてひくい若い男がひっそり立っていた。
「おそいぞ」馬場は怒っているような口調で言った。「おい、この帝大生が佐野次郎左衛門さ。こいつは佐竹六郎だ。れいの画かきさ」
佐竹と私とは苦笑しながら軽く目礼を交した。佐竹の顔は肌理《きめ》も毛穴も全然ないてかてかに磨きあげられた乳白色の能面の感じであった。瞳の焦点がさだかでなく、硝子《ガラス》製の眼玉のようで、鼻は象牙《ぞうげ》細工のように冷く、鼻筋が剣のようにするどかった。眉は柳の葉のように細長く、うすい唇は苺《いちご》のように赤かった。そんなに絢爛《けんらん》たる面貌にくらべて、四肢の貧しさは、これまた驚くべきほどであった。身長五尺に満たないくらい、痩せた小さい両の掌は蜥蜴《とかげ》のそれを思い出させた。佐竹は立ったまま、老人のように生気のない声でぼそぼそ私に話しかけたのである。
「あんたのことを馬場から聞きましたよ。ひどいめに遭ったものですねえ。なかなかやると思っていますよ」私はむっとして、佐竹のまぶしいほど白い顔をもいちど見直した。箱のように無表情であった。
馬場は音たかく舌打ちして、「おい佐竹、からかうのはやめろ。ひ
前へ
次へ
全24ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング