発そうな、眼のすずしい女の子がいて、それの様が私の恋の相手によくよく似ていたからであった。私の恋の相手というのは逢うのに少しばかり金のかかるたちの女であったから、私は金のないときには、その甘酒屋の縁台に腰をおろし、一杯の甘酒をゆるゆると啜《すす》り乍らその菊という女の子を私の恋の相手の代理として眺めて我慢していたものであった。ことしの早春に、私はこの甘酒屋で異様な男を見た。その日は土曜日で、朝からよく晴れていた。私はフランス叙情詩の講義を聞きおえて、真昼頃、梅は咲いたか桜はまだかいな。たったいま教ったばかりのフランスの叙情詩とは打って変ったかかる無学な文句に、勝手なふしをつけて繰りかえし繰りかえし口ずさみながら、れいの甘酒屋を訪れたのである。そのときすでに、ひとりの先客があった。私は、おどろいた。先客の恰好が、どうもなんだか奇態に見えたからである。ずいぶん痩《や》せ細っているようであったけれども身丈《みたけ》は尋常であったし、着ている背広服も黒サアジのふつうのものであったが、そのうえに羽織っている外套《がいとう》がだいいち怪しかった。なんという型のものであるか私には判らぬけれども、ひとめ見た印象で言えば、シルレルの外套である。天鵞絨《ビロード》と紐釦《ボタン》がむやみに多く、色は見事な銀鼠《ぎんねず》であって、話にならんほどにだぶだぶしていた。そのつぎには顔である。これをもひとめ見た印象で言わせてもらえば、シューベルトに化け損ねた狐である。不思議なくらいに顕著なおでこと、鉄縁の小さな眼鏡とたいへんなちぢれ毛と、尖《とが》った顎《あご》と、無精鬚《ぶしょうひげ》。皮膚は、大仰な言いかたをすれば、鶯《うぐいす》の羽のような汚い青さで、まったく光沢がなかった。その男が赤毛氈の縁台のまんなかにあぐらをかいて坐ったまま大きい碾茶《ひきちゃ》の茶碗でたいぎそうに甘酒をすすりながら、ああ、片手あげて私へおいでおいでをしたでないか。ながく躊躇《ちゅうちょ》をすればするほどこれはいよいよ薄気味わるいことになりそうだな、とそう直覚したので、私は自分にもなんのことやら意味の分らぬ微笑を無理して浮べながら、その男の坐っている縁台の端に腰をおろした。
「けさ、とても固いするめを食ったものだから」わざと押し潰《つぶ》しているような低いかすれた声であった。「右の奥歯がいたくてなりません。歯痛ほど
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