いながら、プラアゲ、プラアゲ、となおも低く呟きつづけている馬場を無理、矢理、自動車に押しこんだ。急げ! ああ、いつもながらこの大川を越す瞬間のときめき。幻燈のまち。そのまちには、よく似た路地が蜘蛛《くも》の巣のように四通八達していて、路地の両側の家々の、一尺に二尺くらいの小窓小窓でわかい女の顔が花やかに笑っているのであって、このまちへ一歩踏みこむと肩の重みがすっと抜け、ひとはおのれの一切の姿勢を忘却し、逃げ了《おお》せた罪人のように美しく落ちつきはらって一夜をすごす。馬場にはこのまちが始めてのようであったが、べつだん驚きもせずゆったりした歩調で私と少しはなれて歩きながら、両側の小窓小窓の女の顔をひとつひとつ熟察していた。路地へはいり路地を抜け路地を曲り路地へ行きついてから私は立ちどまり馬場の横腹をそっと小突いて、僕はこの女のひとを好きなのです。ええ、よっぽどまえからと囁いた。私の恋の相手はまばたきもせず小さい下唇だけをきゅっと左へうごかして見せた。馬場も立ちどまり、両腕をだらりとさげたまま首を前へ突きだして、私の女をつくづくと凝視しはじめたのである。やがて、振りかえりざま、叫ぶようにして言った。
「やあ、似ている。似ている」
 はっとはじめて気づいた。
「いいえ、菊ちゃんにはかないません」私は固くなって、へんな応えかたをした。ひどくりきんでいたのである。馬場はかるく狼狽《ろうばい》の様子で、
「くらべたりするもんじゃないよ」と言って笑ったが、すぐにけわしく眉をひそめ、「いや、ものごとはなんでも比較してはいけないんだ。比較根性の愚劣」と自分へ説き聞かせるようにゆっくり呟きながら、ぶらぶら歩きだした。あくる朝、私たちはかえりの自動車のなかで、黙っていた。一口でも、ものを言えば殴り合いになりそうな気まずさ。自動車が浅草の雑沓《ざっとう》のなかにまぎれこみ、私たちもただの人の気楽さをようやく感じて来たころ、馬場はまじめに呟いた。
「ゆうべ女のひとがねえ、僕にこういって教えたものだ。あたしたちだって、はたから見るほど楽じゃないんだよ」
 私は、つとめて大袈裟《おおげさ》に噴きだして見せた。馬場はいつになくはればれと微笑《ほほえ》み、私の肩をぽんと叩いて、
「日本で一番よいまちだ。みんな胸を張って生きているよ。恥じていない。おどろいたなあ。一日一日をいっぱいに生きている」
 そ
前へ 次へ
全24ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング