頸をねぢむけた。「あなたですか。びつくりしましたよ。ここへお坐りなさい。いま、この仕事を大急ぎで片づけてしまひますから、それまで鳥渡、待つてゐて下さいね。お話したいことがあるのです。」へんによそよそしい口調でさう言つて鉛筆を取り直し、またスケツチにふけりはじめた。私はそのうしろに立つたままで暫くもぢもぢしてゐたが、やがて決心をつけてベンチへ腰をおろし、佐竹のスケツチブツクをそつと覗いてみた。佐竹はすぐに察知したらしく、
「ペリカンをかいてゐるのです。」とひくく私に言つて聞かせながら、ペリカンの樣樣の姿態をおそろしく亂暴な線でさつさと寫しとつてゐた。「僕のスケツチをいちまい二十圓くらゐで、何枚でも買つて呉れるといふひとがあるのです。」にやにやひとりで笑ひだした。「僕は馬場みたいに出鱈目を言ふことはきらひですねえ。荒城の月の話はまだですか?」
「荒城の月、ですか?」私にはわけがわからなかつた。
「ぢやあ、まだですね。」うしろむきのペリカンを紙面の隅に大きく寫しながら、「馬場がむかし、瀧廉太郎といふ匿名で荒城の月といふ曲を作つて、その一切の權利を山田耕筰に三千圓で賣りつけた。」
「それが、あの、有名な荒城の月ですか?」私の胸は躍つた。
「嘘ですよ。」一陣の風がスケツチブツクをぱらぱらめくつて、裸婦や花のデツサンをちらちら見せた。「馬場の出鱈目は有名ですよ。また巧妙ですからねえ。誰でもはじめは、やられますよ。ヨオゼフ・シゲテイは、まだですか?」
「それは聞きました。」私は悲しい氣持ちであつた。
「ルフラン附きの文章か。」つまらなさうにさう言つて、スケツチブツクをぱちんと閉ぢた。「どうもお待たせしました。すこし歩きませうよ。お話したいことがあるのです。」
けふは貘の夫婦をあきらめよう。さうして、私にとつて貘よりもさらにさらに異樣に思はれるこの佐竹といふ男の話に、耳傾けよう。水禽の大鐵傘を過ぎて、おつとせいの水槽のまへを通り、小山のやうに巨大なひぐまの、檻のまへにさしかかつたころ、佐竹は語りはじめた。まへにも何囘となく言つて言ひ馴れてゐるやうな諳誦口調であつて、文章にすればいくらか熱のある言葉のやうにもみえるが實際は、れいの嗄れた陰氣くさい低聲でもつてさらさら言ひ流してゐるだけのことなのである。
「馬場は全然だめです。音樂を知らない音樂家があるでせうか。僕はあいつが音樂につい
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