の私は、さきにも鳥渡言つて置いたやうに金魚の糞のやうな無意志の生活をしてゐたのであつて、金魚が泳げば私もふらふらついて行くといふやうな、そんなはかない状態で馬場とのつき合ひをもつづけてゐたにちがひないのである。ところが、八十八夜。――妙なことには、馬場はなかなか暦に敏感らしく、けふは、かのえさる、佛滅だと言つてしよげかへつてゐるかと思ふと、けふは端午だ、やみまつり、などと私にはよく意味のわからぬやうなことまでぶつぶつ呟いてゐたりする有樣で、その日も、私が上野公園のれいの甘酒屋で、はらみ猫、葉櫻、花吹雪、毛蟲、そんな風物のかもし出す晩春のぬくぬくした爛熟の雰圍氣をからだぢゆうに感じながら、ひとりしてビイルを呑んでゐたのであるが、ふと氣がついてみたら、馬場がみどりいろの派手な背廣服を着ていつの間にか私のうしろのはうに坐つてゐたのである。れいの低い聲で、「けふは八十八夜。」さうひとこと呟いたかと思ふともう、てれくさくてかなはんとでもいふやうにむつくり立ちあがつて兩肩をぶるつと大きくゆすつた。八十八夜を記念しようといふ、なんの意味もない決心を笑ひながら固めて、二人、淺草へ呑みに出かけることになつたのであるが、その夜、私はいつそく飛びに馬場へ離れがたない親狎の念を抱くにいたつた。淺草の酒の店を五六軒。馬場はドクタア・プラアゲと日本の樂壇との喧嘩を噛んで吐きだすやうにしながらながながと語り、プラアゲは偉い男さ、なぜつて、とまた獨りごとのやうにしてその理由を呟いてゐるうちに、私は私の女と逢ひたくて、居ても立つてもゐられなくなつた。私は馬場を誘つた。幻燈を見に行かうと囁いたのだ。馬場は幻燈を知らなかつた。よし、よし。けふだけは僕が先輩です。八十八夜だから連れていつてあげませう。私はそんなてれかくしの冗談を言ひながら、プラアゲ、プラアゲ、となほも低く呟きつづけてゐる馬場を無理、矢理、自動車に押しこんだ。急げ! ああ、いつもながらこの大川を越す瞬間のときめき。幻燈のまち。そのまちには、よく似た路地が蜘蛛の巣のやうに四通八達してゐて、路地の兩側の家々の、一尺に二尺くらゐの小窓小窓でわかい女の顏が花やかに笑つてゐるのであつて、このまちへ一歩踏みこむと肩の重みがすつと拔け、ひとはおのれの一切の姿勢を忘却し、逃げ了せた罪人のやうに美しく落ちつきはらつて一夜をすごす。馬場にはこのまちが始めてのや
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