、「お金のかかっているからだですから」
「百万ドルの名馬か?」
ともうひとりの客は、げびた洒落《しゃれ》を言いました。
「名馬も、雌は半値だそうです」
と私は、お酒のお燗《かん》をつけながら、負けずに、げびた受けこたえを致しますと、
「けんそんするなよ。これから日本は、馬でも犬でも、男女同権だってさ」と一ばん若いお客が、呶鳴《どな》るように言いまして、「ねえさん、おれは惚《ほ》れた。一目惚れだ。が、しかし、お前は、子持ちだな?」
「いいえ」と奥から、おかみさんは、坊やを抱いて出て来て、「これは、こんど私どもが親戚《しんせき》からもらって来た子ですの。これでもう、やっと私どもにも、あとつぎが出来たというわけですわ」
「金も出来たし」
と客のひとりが、からかいますと、ご亭主はまじめに、
「いろも出来、借金も出来」と呟《つぶや》き、それから、ふいと語調をかえて、「何にしますか? よせ鍋《なべ》でも作りましょうか?」
と客にたずねます。私には、その時、或る事が一つ、わかりました。やはりそうか、と自分でひとり首肯《うなず》き、うわべは何気なく、お客にお銚子《ちょうし》を運びました。
その日は、クリスマスの、前夜祭とかいうのに当っていたようで、そのせいか、お客が絶えること無く、次々と参りまして、私は朝からほとんど何一つ戴いておらなかったのでございますが、胸に思いがいっぱい籠《こも》っているためか、おかみさんから何かおあがりと勧められても、いいえ沢山と申しまして、そうしてただもう、くるくると羽衣一まいを纏《まと》って舞っているように身軽く立ち働き、自惚《うぬぼ》れかも知れませぬけれども、その日のお店は異様に活気づいていたようで、私の名前をたずねたり、また握手などを求めたりするお客さんが二人、三人どころではございませんでした。
けれども、こうしてどうなるのでしょう。私には何も一つも見当が附いていないのでした。ただ笑って、お客のみだらな冗談にこちらも調子を合せて、更にもっと下品な冗談を言いかえし、客から客へ滑り歩いてお酌して廻って、そうしてそのうちに、自分のこのからだがアイスクリームのように溶けて流れてしまえばいい、などと考えるだけでございました。
奇蹟はやはり、この世の中にも、ときたま、あらわれるものらしゅうございます。
九時すこし過ぎくらいの頃でございましたでしょ
前へ
次へ
全22ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング