いた。それに逸平は三島の火消しの頭《かしら》をつとめていたので、ゆくゆくは次郎兵衛にこの名誉職をゆずってやろうというたくらみもあり、次郎兵衛がこれからもますます馬のように暴れまわってくれたならそれだけ将来の火消し頭としての資格もそなわって来ることだという遠い見透しから、次郎兵衛の放埒《ほうらつ》も見て見ぬふりをしてやったわけであった。
 次郎兵衛は、二十二歳の夏にぜひとも喧嘩の上手になってやろうと決心したのであったが、それはこんな訳からであった。
 三島大社では毎年、八月の十五日にお祭りがあり、宿場のひとたちは勿論《もちろん》、沼津の漁村や伊豆の山々から何万というひとがてんでに団扇《うちわ》を腰にはさみ大社さしてぞろぞろ集って来るのであった。三島大社のお祭りの日には、きっと雨が降るとむかしのむかしからきまっていた。三島のひとたちは派手好きであるから、その雨の中で団扇を使い、踊屋台がとおり山車《だし》がとおり花火があがるのを、びっしょり濡れて寒いのを堪えに堪えながら見物するのである。
 次郎兵衛が二十二歳のときのお祭りの日は、珍らしく晴れていた。青空には鳶《とび》が一羽ぴょろぴょろ鳴きな
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