嫁としてこの新居にむかえられた。その夜、火消したちは次郎兵衛の新居にぎっしりつまって祝い酒を呑み、ひとりずつ順々に隠し芸をして夜を更《ふか》しいよいよ翌朝になってやっとおしまいのひとりが二枚の皿の手品をやって皆の泥酔と熟睡の眼をごまかし或る一隅からのぱちぱちという喝采《かっさい》でもって報いられ、祝賀の宴はおわった。
次郎兵衛は、これはまたこれで結構なことにちがいないのだろう、となま悟りしてきょとんとした一日一日を送っていた。父親の逸平もまた、これで一段落、と呟《つぶや》いてはぽんと煙管《きせる》を吐月峯《とげっぽう》にはたいていた。けれども逸平の澄んだ頭脳でもってしてさえ思い及ばなかった悲しいことがらが起った。結婚してかれこれ二月目の晩に、次郎兵衛は花嫁の酌《しゃく》で酒を呑みながら、おれは喧嘩が強いのだよ、喧嘩をするにはの、こうして右手で眉間を殴りさ、こうして左手で水落ちを殴るのだよ。ほんのじゃれてやってみせたことであったが、花嫁はころりところんで死んだ。やはり打ちどころがよかったのであろう。次郎兵衛は重い罪にとわれ、牢屋へいれられた。ものの上手のすぎた罰である。次郎兵衛は牢屋へはいってからもそのどこやら落ちつきはらった様子のために役人から馬鹿にはされなかったし、また同室の罪人たちからは牢名主としてあがめられた。ほかの罪人たちよりは一段と高いところに坐らされながら、次郎兵衛は彼の自作の都々逸《どどいつ》とも念仏ともつかぬ歌を、あわれなふしで口ずさんでいた。
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岩に囁《ささや》く
頬をあからめつつ
おれは強いのだよ
岩は答えなかった
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嘘の三郎
むかし江戸深川に原宮黄村という男やもめの学者がいた。支那の宗教にくわしかった。一子があり、三郎と呼ばれた。ひとり息子なのに三郎と名づけるとは流石《さすが》に学者らしくひねったものだと近所の取沙汰であった。どうしてそれが学者らしいひねりかたであるかは誰にも判らなかった。そこが学者であるということになっていた。近所での黄村の評判はあまりよくなかった。極端に吝嗇《りんしょく》であるとされていた。ごはんをたべてから必ずそれをきっちり半分もどして、それでもって糊《のり》をこしらえるという噂さえあった。
三郎の嘘《うそ》の花はこの黄村の吝嗇から芽生えた。八歳になるま
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