ふとした事」もありやしない。はじめから、そのつもりで両方が虎視眈々《こしたんたん》、何か「きっかけ」を作ろうとしてあがきもがいた揚句《あげく》の果の、ぎごちないぶざまな小細工《こざいく》に違いないのだ。心がそのところにあらざれば、脚がさわったって頬がふれたって、それが「恋愛」の「きっかけ」などになる筈は無いのだ。かつて私は新宿から甲府まで四時間汽車に乗り、甲府で下車しようとして立ち上り、私と向い合せに凄《すご》い美人が坐っていたのにはじめて気がつき、驚いた事がある。心に色慾の無い時は、凄いほどの美人と膝頭《ひざがしら》を接し合って四時間も坐っていながら、それに気がつかない事もあるのだ。いや、本当にこれは、事実談なのである。図に乗ってまくし立てるようだが、登楼《とうろう》して、おいらんと二人でぐっすり眠って、そうして朝まで、「ひょんな事」も「妙な縁」も何も無く、もちろんそれゆえ「恋愛」も何も起らず、「おや、お帰り?」「そう。ありがとう。」と一夜の宿のお礼を言ってそのまま引き上げた経験さえ私にはあった。
 こんな事を言っていると、いかにも私は我慢してキザに木石を装っている男か、或《ある》いは、イムポテンツか、或いは、実は意馬心猿《いばしんえん》なりと雖《いえど》も如何《いかん》せんもてず、振られどおしの男のように思うひともあるかも知れぬが、私は決してイムポテンツでもないし、また、そんな、振られどおしの哀《あわ》れな男でも無いつもりでいる。要するに私の恋の成立不成立は、チャンスに依らず、徹頭徹尾、私自身の意志に依るのである。私には、一つのチャンスさえ無かったのに、十年間の恋をし続け得た経験もあるし、また、所謂絶好のチャンスが一夜のうちに三つも四つも重っても、何の恋愛も起らなかった事もある。恋愛チャンス説は、私に於いては、全く取るにも足らぬあさはかな愚説のようにしか思われない。それを立派に証明せんとする目的を以て、私は次に私の学生時代の或るささやかな出来事を記して置こうと思う。恋はチャンスに依らぬものだ。一夜に三つも四つも「妙な縁」やら「ふとした事」やら「思わぬきっかけ」やらが重って起っても、一向に恋愛が成立しなかった好例として、次のような私の体験を告白しようと思うのである。
 あれは私が弘前《ひろさき》の高等学校にはいって、その翌年の二月のはじめ頃だったのではなかったかしら、とにかく冬の、しかも大寒《だいかん》の頃の筈である。どうしても大寒の頃でなければならぬわけがあるのだが、しかし、そのわけは、あとで言う事にして、何の宴会であったか、四五十人の宴会が弘前の或る料亭でひらかれ、私が文字どおりその末席に寒さにふるえながら坐っていた事から、この話をはじめたほうがよさそうである。
 あれは何の宴会であったろう。何か文芸に関係のある宴会だったような気もする。弘前の新聞記者たち、それから町の演劇研究会みたいなもののメンバー、それから高等学校の先生、生徒など、いろいろな人たちで、かなり多人数の宴会であった。高等学校の生徒でそこに出席していたのは、ほとんど上級生ばかりで、一年生は、私ひとりであったような気がする。とにかく、私は末席であった。絣《かすり》の着物に袴《はかま》をはいて、小さくなって坐っていた。芸者が私の前に来て坐って、
「お酒は? 飲めないの?」
「だめなんだ。」
 当時、私はまだ日本酒が飲めなかった。あのにおいが厭《いや》でたまらなかった。ビイルも飲めなかった。にがくて、とても、いけなかった。ポートワインとか、白酒とか、甘味のある酒でなければ飲めなかった。
「あなたは、義太夫《ぎだゆう》をおすきなの?」
「どうして?」
「去年の暮に、あなたは小土佐《ことさ》を聞きにいらしてたわね。」
「そう。」
「あの時、あたしはあなたの傍にいたのよ。あなたは稽古本《けいこぼん》なんか出して、何だか印をつけたりして、きざだったわね。お稽古も、やってるの?」
「やっている。」
「感心ね。お師匠さんは誰?」
「咲栄太夫《さきえだゆう》さん。」
「そう。いいお師匠さんについたわね。あのかたは、この弘前では一ばん上手《じょうず》よ。それにおとなしくて、いいひとだわ。」
「そう。いいひとだ。」
「あんなひと、すき?」
「師匠だもの。」
「師匠だからどうなの?」
「そんな、すきだのきらいだのって、あのひとに失敬だ。あのひとは本当にまじめなひとなんだ。すきだのきらいだの。そんな、馬鹿な。」
「おや、そうですか。いやに固苦しいのね。あなたはこれまで芸者遊びをした事なんかあるの?」
「これからやろうと思っている。」
「そんなら、あたしを呼んでね、あたしの名はね、おしのというのよ。忘れないようにね。」
 昔のくだらない花柳《かりゅう》小説なんていうものに、よくこんな場
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