だ。
「さようなら。どうも、ありがとう。」と私は言った。
「さようなら。」とお篠も言った。
 これでよし、あとはひとりで雀焼きという事になる。私は部屋に通され、番頭の敷いてくれた蒲団《ふとん》にさっさともぐり込んで、さて、これからゆっくり寒雀をと思ったとたんに玄関で、
「番頭さん!」と呼ぶお篠の声。私は、ぎょっとして耳をすました。
「あのね、下駄《げた》の鼻緒《はなお》を切らしちゃったの。お願いだから、すげてね。あたしその間、お客さんの部屋で待ってるわ。」
 これはいけない、と私は枕元《まくらもと》の雀焼きを掛蒲団の下にかくした。
 お篠は部屋へはいって来て、私の枕元にきちんと坐り、何だか、いろいろ話しかける。私は眠そうな声で、いい加減の返辞をしている。掛蒲団の下には雀焼きがある。とうとうお篠とは、これほどたくさんのチャンスがあったのに、恋愛のレの字も起らなかった。お篠はいつまでも私の枕元に坐っていて、そうしてこう言った。
「あたしを、いやなの。」
 私はそれに対してこう答えた。
「いやじゃないけど、ねむくって。」
「そう。それじゃまたね。」
「ああ、おやすみ。」と私のほうから言った。
「おやすみなさい。」
 とお篠も言って、やっと立ち上った。
 そうして、それだけであった。その後、私は芸者遊びなど大いにするようになったが、なぜだか弘前で遊ぶのは気がひけて、おもに青森の芸者と遊んだ。問題の雀焼きは、お篠の退去後に食べたか、または興覚めて棄てちゃったか、思い出せない。さすがに、食べるのがいやになって、棄てちゃったような気もする。
 これが即ち、恋はチャンスに依らぬものだ、一夜のうちに「妙な縁」やら「ふとした事」やら「もののはずみ」やらが三つも四つも重って起っても、或る強固な意志のために、一向に恋愛が成立しないという事の例証である。ただもう「ふとした事」で恋愛が成立するものとしたら、それは実に卑猥《ひわい》な世相になってしまうであろう。恋愛は意志に依るべきである。恋愛チャンス説は、淫乱《いんらん》に近い。それではもう一つの、何のチャンスも無かったのに、十年間の恋をし続け得た経験とはどんなものであるかと読者にたずねられたならば、私は次のように答えるであろう。それは、片恋というものであって、そうして、片恋というものこそ常に恋の最高の姿である。
 庭訓《ていきん》。恋愛に限らず、人生すべてチャンスに乗ずるのは、げびた事である。



底本:「太宰治全集8」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:miyako
2000年4月7日公開
2005年11月4日修正
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