なら、いつも兄さんのが一ばん好きなんだけどねえ。」
「わからん。お母さんには、わからん。どうしたって、今度は僕が書かなくちゃいけないんだ。あの続きは、僕でなくちゃ書けないんだ。お母さんお願い。書いてもいいね?」
「困りますね。あなたは、きょうは、寝ていなくちゃいけませんよ。兄さんに代ってもらいなさい。あなたは、明日でも、あさってでも、からだの調子が本当によくなってから書く事にしたらいいじゃありませんか。」
「だめだ。お母さんは、僕たちの遊びを馬鹿にしているんだからなあ。」大袈裟《おおげさ》に溜息を吐《つ》いて、蒲団を頭から、かぶってしまった。
「わかりました。」母は笑って、「お母さんが悪かったね。それじゃね、こうしたらどう? あなたが寝ながら、ゆっくり言うのを私が、そのまま書いてあげる。ね、そうしましょう。去年の春に、あなたがやはり熱を出して寝ていた時、何やらむずかしい学校の論文を、あなたの言うとおりに、お母さんが筆記できたじゃないの。あの時も、お母さんは、案外上手だったでしょう?」
 病人は、蒲団をかぶったまま、返事もしない。母は、途方に暮れた。女中のさとが、朝食のお膳を捧《ささ》げて部屋へはいって来た。さとは、十三の時から、この入江の家に奉公している。沼津辺の漁村の生れである。ここへ来て、もう四年にもなるので、家族のロマンチックの気風にすっかり同化している。令嬢たちから婦人雑誌を借りて、仕事のひまひまに読んでいる。昔の仇討《あだう》ち物語を、最も興奮して読んでいる。女は操《みさお》が第一、という言葉も、たまらなく好きである。命をかけても守って見せると、ひとりでこっそり緊張している。柳行李《やなぎごうり》の中に、長女からもらった銀のペーパーナイフを蔵《かく》してある。懐剣のつもりなのである。色は浅黒いけれど、小さく引きしまった顔である。身なりも清潔に、きちんとしている。左の足が少し悪く、こころもち引きずって歩く様子も、かえって可憐である。入江の家族全部を、神さまか何かのように尊敬している。れいの祖父の銀貨勲章をも、眼がくらむ程に、もったいなく感じている。長女ほどの学者は世界中にいない、次女ほどの美人も世界中にいない、と固く信じている。けれども、とりわけ、病身の次男を、死ぬほど好いている。あんな綺麗な御主人のお伴をして仇討ちに出かけたら、どんなに楽しいだろう。今は、昔のように仇討ちの旅というものが無いから、つまらない、などと馬鹿な事を考えている。
 いま、さとは次男の枕元に、お膳をうやうやしく置いて、少し淋しい。次男は蒲団を引きかぶったままである。母堂は、それを、ただ静かに眺めて笑っている。さとは、誰にも相手にされない。ひっそり、そこに坐って、暫《しばら》く待ってみたが、何という事も無い。おそるおそる母堂に尋ねた。
「よほど、お悪いのでしょうか。」
「さあ、どうでしょうかねえ。」母は、笑っている。
 突然、次男は蒲団をはねのけ、くるりと腹這《はらば》いになり、お膳を引き寄せて箸《はし》をとり、寝たまま、むしゃむしゃと食事をはじめた。さとはびっくりしたが、すぐに落ちついて給仕した。次男の意外な元気の様子に、ほっと安心したのである。次男は、ものも言わず、猛烈な勢いで粥《かゆ》を啜《すす》り、憤然と梅干を頬張り、食慾は十分に旺盛のようである。
「さとは、どう思うかねえ。」半熟卵を割りながら、ふいと言い出した。「たとえば、だね、僕がお前と結婚したら、お前は、どんな気がすると思うかね。」実に、意外の質問である。
 さとよりも、母のほうが十倍も狼狽した。
「ま! なんという、ばかな事を言うのです。冗談にも、そんな、ねえ、さとや、お前をからかっているのです。そんな、乱暴な、冗談にも、そんな。」
「たとえば、ですよ。」次男は、落ちついている。先刻から、もっぱら小説の筋書ばかり考えているのである。その譬《たとえ》が、さとの小さい胸を、どんなに痛く刺したか、てんで気附かないでいるのである。勝手な子である。「さとは、どんな気がするだろうなあ。言ってごらん。小説の参考になるんだよ。実に、むずかしいところなんだ。」
「そんな、突拍子ない事を言ったって、」母は、ひそかにほっとして、「さとには、わかりませんよ、ねえ、さとや。猛《たけし》(次男の名)は、ばかげた事ばかり言っています。」
「わたくしならば、」さとは、次男の役に立つ事なら、なんでも言おうと思った。母堂の当惑そうな眼くばせをも無視して、ここぞと、こぶしを固くして答えた。「わたくしならば、死にます。」
「なあんだ。」次男は、がっかりした様子である。「つまらない。死んじゃったんでは、つまらないんだよ。ラプンツェルが死んじゃったら、物語も、おしまいだよ。だめだねえ。ああ、むずかしい。どんな事にしたらいい
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