ゆっくり、東京の空襲の話でも。」
私にはその時突然、東京の荻窪《おぎくぼ》あたりのヤキトリ屋台が、胸の焼き焦《こ》げるほど懐しく思い出され、なんにも要らない、あんな屋台で一串二銭のヤキトリと一杯十銭のウィスケというものを前にして思うさま、世の俗物どもを大声で罵倒《ばとう》したいと渇望《かつぼう》した。しかし、それは出来ない。私は微笑して立ち上り、お礼とそれからお世辞を言った。
「いい奥さんを持って仕合せです。」往来を、大きなカボチャを三つ荒縄でくくって背負い、汗だくで歩いているおかみさんがある。私はそれを指さして、「たいていは、あんなひどいものなんですからね。創意も工夫もありやしない。」医師は、妙な顔をして、ええ、と言った。はっと思うまもなく、その女は、医師の家の勝手口にはいった。やんぬる哉《かな》。それが、すなわち、細君御帰宅。
底本:「太宰治全集8」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:ゆうこ
2000年3月2
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