み着のままという罹災者は一人も無く、まずたいていは荷物の四個や五個はどこかに疎開させていて、当分の衣料その他に不自由は無いものの如《ごと》くに見受けられる。それだけのお金や品物が残っていたら、なに、あとはその人の創意工夫で、なんとかやって行けるものだ、田舎のお百姓さんたちにたよらず、立派に自力で更生の道を切りひらいて行くべきだと思う。とこうまあ謂《い》わば正論を以《もっ》て一矢《いっし》報いてやったのですね、そうすると、そのお隣りの細君が泣き出しましてね、私たちは何もいままで東京で遊んでいたわけじゃない、ひどい苦労をして来たんだ、とか何とか、まあ愚痴《ぐち》ですね、涙まじりにくどくど言って、うちの細君の創意工夫のアメリカソバをごちそうになって帰りましたが、どうも、あの疎開者というものは自分で自分をみじめにしていますね、おや、お帰りですか、まだよろしいじゃありませんか、リンゴ酒をさあどうぞ、まだだいぶ残っています、これ一本だけでもどうか召し上ってしまって下さい。僕はどうせ飲まないのですから、そうですか、どうしてもお帰りになりますか、ざんねんですね。うちの細君も、もう帰って来る頃ですから、ゆっくり、東京の空襲の話でも。」
私にはその時突然、東京の荻窪《おぎくぼ》あたりのヤキトリ屋台が、胸の焼き焦《こ》げるほど懐しく思い出され、なんにも要らない、あんな屋台で一串二銭のヤキトリと一杯十銭のウィスケというものを前にして思うさま、世の俗物どもを大声で罵倒《ばとう》したいと渇望《かつぼう》した。しかし、それは出来ない。私は微笑して立ち上り、お礼とそれからお世辞を言った。
「いい奥さんを持って仕合せです。」往来を、大きなカボチャを三つ荒縄でくくって背負い、汗だくで歩いているおかみさんがある。私はそれを指さして、「たいていは、あんなひどいものなんですからね。創意も工夫もありやしない。」医師は、妙な顔をして、ええ、と言った。はっと思うまもなく、その女は、医師の家の勝手口にはいった。やんぬる哉《かな》。それが、すなわち、細君御帰宅。
底本:「太宰治全集8」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:ゆうこ
2000年3月21日公開
2005年11月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング