ちんば、それで朝から晩までめそめそ泣きつかれていた日には、伊右衛門でなくても、蚊帳《かや》を質にいれて遊びに出かけたくなるだろうと思う。つぎに私は、友情と金銭の相互関係について、つぎに私は師弟の挨拶《あいさつ》について、つぎに私は兵隊について、いくらでも言えるのであるが、いますぐ牢《ろう》へいれられるのはやはりいやであるからこの辺で止す。つまり私には良心がないということを言いたいのである。はじめからそんなものはなかった。鞭影《べんえい》への恐怖、言いかえれば世の中から爪弾《つまはじ》きされはせぬかという懸念、牢屋への憎悪、そんなものを人は良心の呵責《かしゃく》と呼んで落ちついているようである。自己保存の本能なら、馬車馬にも番犬にもある。けれども、こんな日常倫理のうえの判り切った出鱈目を、知らぬ顔して踏襲して行くのが、また世の中のなつかしいところ、血気にはやってばかな真似をするなよ、と同宿のサラリイマンが私をいさめた。いや、と私は気を取り直して心のなかで呟く。ぼくは新しい倫理を樹立するのだ。美と叡智《えいち》とを規準にした新しい倫理を創るのだ。美しいもの、怜悧《れいり》なるものは、すべて
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