た。あそこだけは、よし。
 私の家の庭にも、ときたま、蟹が這って来る。君は、芥子《けし》つぶほどの蟹を見たことがあるか。芥子つぶほどの蟹と、芥子つぶほどの蟹とが、いのちかけて争っていた。私、あのとき、凝然《ぎょうせん》とした。

     わがダンディスム

「ブルウタス、汝《なんじ》もまた。」
 人間、この苦汁を嘗《な》めぬものが、かつて、ひとりでも、あったろうか。おのれの最も信頼して居るものこそ、おのれの、生涯の重大の刹那《せつな》に、必ず、おのれの面上に汚き石を投ずる。はっしと投ずる。
 さきごろ、友人保田与重郎の文章の中から、芭蕉の佳《よ》き一句を見いだした。「朝がほや昼は鎖《じょう》おろす門の垣。」なるほど、これに限る。けれども、――また、――否。これに限る。これに限る!

     「晩年」に就いて

 私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った。まる十箇年、市民と同じさわやかな朝めしを食わなかった。私は、この本一冊のために、身の置きどころを失い、たえず自尊心を傷《きずつ》けられて世のなかの寒風に吹きまくられ、そうして、うろうろ歩きまわっていた。数万円の金銭を浪費した。長兄の苦労のほどに頭さがる。舌を焼き、胸を焦がし、わが身を、とうてい恢復《かいふく》できぬまでにわざと損じた。百篇にあまる小説を、破り捨てた。原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛《かろ》うじて、これだけである。これだけ。原稿用紙、六百枚にちかいのであるが、稿料、全部で六十数円である。
 けれども、私は、信じて居る。この短篇集、「晩年」は、年々歳々、いよいよ色濃く、きみの眼に、きみの胸に滲透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く。そうして、私がこののち永く生きながらえ、再度、短篇集を出さなければならぬことがあるとしても、私はそれに、「歌留多《かるた》」と名づけてやろうと思って居る。歌留多、もとより遊戯である。しかも、全銭を賭ける遊戯である。滑稽にもそれからのち、さらにさらに生きながらえ、三度目の短篇集を出すことがあるならば、私はそれに、「審判」と名づけなければいけないようだ。すべての遊戯にインポテンスになった私には、全く生気を欠いた自叙伝をぼそぼそ書いて行くよりほかに、路がないであろう。旅人よ、この路を避けて通れ。これは、確実にむなしい、路なのだから、と審判という燈台は、この世ならず厳粛に語るだろう。けれども、今宵の私は、そんなに永く生きていたくない。おのれのスパルタを汚すよりは、錨《いかり》をからだに巻きつけて入水《じゅすい》したいものだとさえ思っている。
 さもあらばあれ、「晩年」一冊、君のその両手の垢《あか》で黒く光って来るまで、繰り返し繰り返し愛読されることを思うと、ああ、私は幸福だ。――一瞬間。ひとは、その生涯に於いて、まことの幸福を味い得る時間は、これは、百|米《メートル》十秒一どころか、もっと短いようである。声あり。「嘘だ! 不幸なる出版なら、やめるがよい。」答えて曰《いわ》く、「われは、いまの世に二となき美しきもの。メジチのヴィナス像。いまの世のまことの美の実証を、この世にのこさんための出版也。
 見よ! ヴィナス像の色に出ずるほどの羞恥のさま。これ、わが不幸のはじめ。また、春夏秋冬つねに裸体にして、とわに無言、やや寒き貌《かお》こそ、(美人薄命、)天のこの冷酷極りなき嫉妬《しっと》の鞭《むち》を、かの高雅なる眼もてきみにそと教えて居る。」

     気がかりということに就いて

 気がかりということに、黒白の二種、たしかにあることを知る。なにわぶしの語句、「あした待たるる宝船。」と、プウシキンの詩句、「あたしは、あした殺される。」とは、心のときめきに於いては同じようにも思われるだろうが、熟慮半日、確然と、黒白の如く分離し在るを知れり。

     宿題

「チェック・チャックに就いて。」「策略ということについて。」「言葉の絶対性ということについて。」「沈黙は金なりということに就いて。」「野性と暴力について。」「ダンディスム小論。」「ぜいたくに就いて。」「出世について。」「羨望《せんぼう》について。」「原始のセンチメンタリティということについて。」そのほか、甚《はなは》だけちのようなれども、題名を言われぬもの、十七八項目くらい。少しずつノオトに書きしるしていっているのであるが、いま、「文芸雑誌。」創刊号になにか書くことをすすめられ、何を書こうかと、ノオトを二冊も三冊も出してあちらを覗《のぞ》き、こちらを覗きして、夕暮より、朝までかかった。どれもこれも、胸にひっからまり、工合いよくゆかぬ。牛乳を飲んで、朝の新聞を読んでいるうちに、わかった。
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