き。日本は、古事記。日本書紀。万葉の国なり。長編小説などの国には非《あら》ず。小説家たる君、まず異国人になりたまえ。あれも、これも、と佳《よ》き工合《ぐあい》には、断じていかぬよう也。君の兄たり友たり得るもの、プウシキン、レエルモントフ、ゴオゴリ、トルストイ、ドストエフスキイ、アンドレエフ、チエホフ、たちまち十指にあまる勢いではないか。

     最後のスタンドプレイ

 ダヴィンチの評伝を走り読みしていたら、はたと一枚の挿画に行き当った。最後の晩餐《ばんさん》の図である。私は目を見はった。これはさながら地獄の絵掛地。ごったがえしの、天地震動の大騒ぎ。否。人の世の最も切なき阿修羅《あしゅら》の姿だ。
 十九世紀のヨオロッパの文豪たちも、幼くしてこの絵を見せられ、こわき説明を聞かされたにちがいない。
「われを売る者、この中にひとりあり。」キリストはそう呟《つぶや》いて、かれの一切の希望をさらっと捨て去った、刹那《せつな》の姿を巧みにとらえた。ダヴィンチは、キリストの底しれぬ深い憂愁と、われとわが身を静粛に投げ出したるのちの無限のいつくしみの念とを知っていた。そうしてまた、十二の使徒のそれぞれの利己的なる崇敬の念をも悉知《しっち》していた。よし。これを一つ、日本浪曼派の同人諸兄にたのんで、芝居をしてもらおう。精悍《せいかん》無比の表情を装い、斬人斬馬の身ぶりを示して居るペテロは誰。おのれの潔白を証明することにのみ急なる態のフィリッポスは誰。ただひたすらに、あわてふためいて居るヤコブは誰。キリストの胸のおん前に眠るが如くうなだれて居るこの小鳩のように優美なるヨハネは誰。そうして、最後に、かなしみ極りてかえって、ほのかに明るき貌《かお》の、キリストは誰。
 山岸、あるいは、自らすすんでキリストの役を買って出そうであるが、果して、どういうものであるか。中谷孝雄なる佳《よ》き青年の存在をもゆめ忘れてはならないし、そのうえ、「日本浪曼派」という目なき耳なき混沌《こんとん》の怪物までひかえて居る。ユダ。左手もて何やらんおそろしきものを防ぎ、右手もて、しっかと金嚢《きんのう》を掴んで居る。君、その役をどうか私にゆずってもらいたい。私、「日本浪曼派」を愛すること最も深く、また之を憎悪するの念もっとも高きものがあります故。

     冷酷ということについて

 厳酷と冷酷とは、すでに
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