げにちよこまか、バネ仕掛けの如く動きまはつてゐた。別にこじつけるわけではないが、所謂「青春の純真」といふものの元祖は、或いは、アメリカあたりにあつたのではなからうかと思はれるくらゐだ。スキイでランラン、とかいふたぐひである。さうしてその裏で、ひどく愚劣な犯罪を平気で行つてゐる。低能でなければ悪魔である。いや、悪魔といふものは元来、低能なのかも知れない。小柄でほつそりして手足が華奢で、かの月の女神アルテミスにも比較せられた十六歳の処女の兎も、ここに於いて一挙に頗る興味索然たるつまらぬものになつてしまつた。低能かい。それぢやあ仕様が無いねえ。
「ひやあ!」と脚下に奇妙な声が起る。わが親愛なる而して甚だ純真ならざる三十七歳の男性、狸君の悲鳴である。「水だ、水だ。これはいかん。」
「うるさいわね。泥の舟だもの、どうせ沈むわ。わからなかつたの?」
「わからん。理解に苦しむ。筋道が立たぬ。それは御無理といふものだ。お前はまさかこのおれを、いや、まさか、そんな鬼のやうな、いや、まるでわからん。お前はおれの女房ぢやないか。やあ、沈む。少くとも沈むといふ事だけは眼前の真実だ。冗談にしたつて、あくどすぎる。これはほとんど暴力だ。やあ、沈む。おい、お前どうしてくれるんだ。お弁当がむだになるぢやないか。このお弁当箱には鼬の糞《ふん》でまぶした蚯蚓のマカロニなんか入つてゐるのだ。惜しいぢやないか。あつぷ! ああ、たうとう水を飲んぢやつた。おい、たのむ、ひとの悪い冗談はいい加減によせ。おいおい、その綱を切つちやいかん。死なばもろとも、夫婦は二世、切つても切れねえ縁《えにし》の艫綱《ともづな》、あ、いけねえ、切つちやつた。助けてくれ! おれは泳ぎが出来ねえのだ。白状する。昔は少し泳げたのだが、狸も三十七になると、あちこちの筋《すぢ》が固くなつて、とても泳げやしないのだ。白状する。おれは三十七なんだ。お前とは実際、としが違ひすぎるのだ。年寄りを大事にしろ! 敬老の心掛けを忘れるな! あつぷ! ああ、お前はいい子だ、な、いい子だから、そのお前の持つてゐる櫂をこつちへ差しのべておくれ、おれはそれにつかまつて、あいたたた、何をするんだ、痛いぢやないか、櫂でおれの頭を殴りやがつて、よし、さうか、わかつた! お前はおれを殺す気だな、それでわかつた。」と狸もその死の直前に到つて、はじめて兎の悪計を見抜いたが、既におそかつた。
ぽかん、ぽかん、と無慈悲の櫂が頭上に降る。狸は夕陽にきらきら輝く湖面に浮きつ沈みつ、
「あいたたた、あいたたた、ひどいぢやないか。おれは、お前にどんな悪い事をしたのだ。惚れたが悪いか。」と言つて、ぐつと沈んでそれつきり。
兎は顔を拭いて、
「おお、ひどい汗。」と言つた。
ところでこれは、好色の戒めとでもいふものであらうか。十六歳の美しい処女には近寄るなといふ深切な忠告を匂はせた滑稽物語でもあらうか。或いはまた、気にいつたからとて、あまりしつこくお伺ひしては、つひには極度に嫌悪せられ、殺害せられるほどのひどいめに遭ふから節度を守れ、といふ礼儀作法の教科書でもあらうか。
或いはまた、道徳の善悪よりも、感覚の好き嫌ひに依つて世の中の人たちはその日常生活に於いて互ひに罵り、または罰し、または賞し、または服してゐるものだといふ事を暗示してゐる笑話であらうか。
いやいや、そのやうに評論家的な結論に焦躁せずとも、狸の死ぬるいまはの際の一言にだけ留意して置いたら、いいのではあるまいか。
曰く、惚れたが悪いか。
古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかつてゐると言つても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。おそらくは、また、君に於いても。後略。
[#改頁]
舌切雀
私はこの「お伽草紙」といふ本を、日本の国難打開のために敢闘してゐる人々の寸暇に於ける慰労のささやかな玩具として恰好のものたらしむべく、このごろ常に微熱を発してゐる不完全のからだながら、命ぜられては奉公の用事に出勤したり、また自分の家の罹災の後始末やら何やらしながら、とにかく、そのひまに少しづつ書きすすめて来たのである。瘤取り、浦島さん、カチカチ山、その次に、桃太郎と、舌切雀を書いて、一応この「お伽草紙」を完結させようと私は思つてゐたのであるが、桃太郎のお話は、あれはもう、ぎりぎりに単純化せられて、日本男児の象徴のやうになつてゐて、物語といふよりは詩や歌の趣きさへ呈してゐる。もちろん私も当初に於いては、この桃太郎をも、私の物語に鋳造し直すつもりでゐた。すなはち私は、あの鬼ヶ島の鬼といふものに、或る種の憎むべき性格を附与してやらうと思つてゐた。どうしてもあれは、征伐せずには置けぬ醜怪極悪無類の人間として、描写するつもりであつた。それに依つて桃太郎の鬼征伐も大いに読者諸君の共鳴を呼び起し、而してその戦闘も読む者の手に汗を握らせるほどの真に危機一髪のものたらしめようとたくらんでゐた。(未だ書かぬ自分の作品の計画を語る場合に於いては、作者はたいていこのやうにあどけない法螺を吹くものである。そんなに、うまくは行きませぬて。)まあさ、とにかく、まあ、聞き給へ。どうせ、気焔だがね。とにかく、ひやかさずに聞いてくれ給へ。ギリシヤ神話に於いて、最も佞悪醜穢の魔物は、やはりあの万蛇頭のメデウサであらう。眉間には狐疑の深い皺がきざみ込まれ、小さい灰色の眼には浅間しい殺意が燃え、真蒼な頬は威嚇の怒りに震へて、黒ずんだ薄い唇は嫌悪と侮蔑にひきつつたやうにゆがんでゐる。さうして長い頭髪の一本一本がことごとく腹の赤い毒蛇である。敵に対してこの無数の毒蛇は、素早く一様に鎌首をもたげ、しゆつしゆつと気味悪い音を立てて手向ふ。このメデウサの姿をひとめ見た者は、何とも知れずいやな気持になつて、さうして、心臓が凍り、からだ全体つめたい石になつたといふ。恐怖といふよりは、不快感である。人の肉体よりも、人の心に害を加へる。このやうな魔物は、最も憎むべきものであり、かつまたすみやかに退治しなければならぬものである。それに較べると、日本の化物は単純で、さうして愛嬌がある。古寺の大入道や一本足の傘の化物などは、たいてい酒飲みの豪傑のために無邪気な舞ひをごらんに入れて以て豪傑の乙夜丑満の無聊を慰めてくれるだけのものである。また、絵本の鬼ヶ島の鬼たちも、図体ばかり大きくて、猿に鼻など引掻かれ、あつ! と言つてひつくりかへつて降参したりしてゐる。一向におそろしくも何とも無い。善良な性格のもののやうにさへ思はれる。それでは折角の鬼退治も、甚だ気抜けのした物語になるだらう。ここは、どうしてもメデウサの首以上の凄い、不愉快きはまる魔物を登場させなければならぬところだ。それでなければ読者の手に汗を握らせるわけにはいかぬ。また、征服者の桃太郎が、あまりに強くては、読者はかへつて鬼のはうを気の毒に思つたりなどして、その物語に危機一髪の醍醐味は湧いて出ない。ジイグフリイドほどの不死身《ふじみ》の大勇者でも、その肩先に一箇所の弱点を持つてゐたではないか。弁慶にも泣きどころがあつたといふし、とにかく、完璧の絶対の強者は、どうも物語には向かない。それに私は、自身が非力のせゐか、弱者の心理にはいささか通じてゐるつもりだが、どうも、強者の心理は、あまりつまびらかに知つてゐない。殊にも、誰にも絶対に負けぬ完璧の強者なんてのには、いま迄いちども逢つた事が無いし、また噂にさへ聞いた事が無い。私は多少でも自分で実際に経験した事で無ければ、一行も一字も書けない甚だ空想が貧弱の物語作家である。それで、この桃太郎物語を書くに当つても、そんな見た事も無い絶対不敗の豪傑を登場させるのは何としても不可能なのである。やはり、私の桃太郎は、小さい時から泣虫で、からだが弱くて、はにかみ屋で、さつぱり駄目な男だつたのだが、人の心情を破壊し、永遠の絶望と戦慄と怨嗟の地獄にたたき込む悪辣無類にして醜怪の妖鬼たちに接して、われ非力なりと雖もいまは黙視し得ずと敢然立つて、黍団子を腰に、かの妖鬼たちの巣窟に向つて発足する、とでもいふやうな事になりさうである。またあの、犬、猿、雉の三匹の家来も、決して模範的な助力者ではなく、それぞれに困つた癖があつて、たまには喧嘩もはじめるであらうし、ほとんどかの西遊記の悟空、八戒、悟浄の如きもののやうに書くかも知れない。しかし、私は、カチカチ山の次に、いよいよこの、「私の桃太郎」に取りかからうとして、突然、ひどく物憂い気持に襲はれたのである。せめて、桃太郎の物語一つだけは、このままの単純な形で残して置きたい。これは、もう物語ではない。昔から日本人全部に歌ひ継がれて来た日本の詩である。物語の筋にどんな矛盾があつたつて、かまはぬ。この詩の平明闊達の気分を、いまさら、いぢくり廻すのは、日本に対してすまぬ。いやしくも桃太郎は、日本一といふ旗を持つてゐる男である。日本一はおろか日本二も三も経験せぬ作者が、そんな日本一の快男子を描写できる筈が無い。私は桃太郎のあの「日本一」の旗を思ひ浮べるに及んで、潔く「私の桃太郎物語」の計画を放棄したのである。
さうして、すぐつぎに舌切雀の物語を書き、それだけで一応、この「お伽草紙」を結びたいと思ひ直したわけである。この舌切雀にせよ、また前の瘤取り、浦島さん、カチカチ山、いづれも「日本一」の登場は無いので、私の責任も軽く、自由に書く事を得たのであるが、どうも、日本一と言ふ事になると、かりそめにもこの貴い国で第一と言ふ事になると、いくらお伽噺だからと言つても、出鱈目な書き方は許されまい。外国の人が見て、なんだ、これが日本一か、などと言つたら、その口惜しさはどんなだらう。だから、私はここにくどいくらゐに念を押して置きたいのだ。瘤取りの二老人も浦島さんも、またカチカチ山の狸さんも、決して日本一ではないんだぞ、桃太郎だけが日本一なんだぞ、さうしておれはその桃太郎を書かなかつたんだぞ、だから、この「お伽草紙」には、日本一なんか、もしお前の眼前に現はれたら、お前の両眼はまぶしさのためにつぶれるかも知れない。いいか、わかつたか。この私の「お伽草紙」に出て来る者は、日本一でも二でも三でも無いし、また、所謂「代表的人物」でも無い。これはただ、太宰といふ作家がその愚かな経験と貧弱な空想を以て創造した極めて凡庸の人物たちばかりである。これらの諸人物を以て、ただちに日本人の軽重を推計せんとするのは、それこそ刻舟求剣のしたり顔なる穿鑿に近い。私は日本を大事にしてゐる。それは言ふまでも無い事だが、それゆゑ、私は日本一の桃太郎を描写する事は避け、また、他の諸人物の決して日本一ではない所以をもくどくどと述べて来たのだ。読者もまた、私のこんなへんなこだはり方に大いに賛意を表して下さるのではあるまいか、と思はれる。
さて、この舌切雀の主人公は、日本一どころか、逆に、日本で一ばん駄目な男と言つてよいかも知れぬ。だいいち、からだが弱い。からだの弱い男といふものは、足の悪い馬よりも、もつと世間的の価値が低いやうである。いつも力無い咳をして、さうして顔色も悪く、朝起きて部屋の障子にはたきを掛け、箒で塵を掃き出すと、もう、ぐつたりして、あとは、一日一ぱい机の傍で寝たり起きたり何やら蠢動して、夕食をすますと、すぐ自分でさつさと蒲団を引いて寝てしまふ。この男は、既に十数年来こんな情無い生活を続けてゐる。未だ四十歳にもならぬのだが、しかし、よほど前から自分の事を翁と署名し、また自分の家の者にも「お爺さん」と呼べと命令してゐる。まあ、世捨人とでも言ふべきものであらうか。しかし、世捨人だつて、お金が少しでもあるから、世を捨てられるので、一文無しのその日暮しだつたら、世を捨てようと思つたつて、世の中のはうから追ひかけて来て、とても捨て切れるものでない。この「お爺さん」も、いまはこんなささやかな草の庵を結ん
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