の? といふ気持、いや、それよりもひどい。なんだつてまたやつて来たの、図々しいぢやないの、といふ気持、いや、それよりもなほひどい。ああ、たまらない! 厄病神が来た! といふ気持、いや、それよりも、もつとひどい。きたない! くさい! 死んぢまへ! といふやうな極度の嫌悪が、その時の兎の顔にありありと見えてゐるのに、しかし、とかく招かれざる客といふものは、その訪問先の主人の、こんな憎悪感に気附く事はなはだ疎いものである。これは実に不思議な心理だ。読者諸君も気をつけるがよい。あそこの家へ行くのは、どうも大儀だ、窮屈だ、と思ひながら渋々出かけて行く時には、案外その家で君たちの来訪をしんから喜んでゐるものである。それに反して、ああ、あの家はなんて気持のよい家だらう、ほとんどわが家同然だ、いや、わが家以上に居心地がよい、我輩の唯一の憩《いこ》ひの巣だ、なんともあの家へ行くのは楽しみだ、などといい気分で出かける家に於いては、諸君は、まづたいてい迷惑がられ、きたながられ、恐怖せられ、襖の陰に箒など立てられてゐるものである。他人の家に、憩ひの巣を期待するのが、そもそも馬鹿者の証拠なのかも知れないが、とかくこの訪問といふ事に於いては、吾人は驚くべき思ひ違ひをしてゐるものである。格別の用事でも無い限り、どんな親しい身内の家にでも、矢鱈に訪問などすべきものでは無いかも知れない。作者のこの忠告を疑ふ者は、狸を見よ。狸はいま明らかに、このおそるべき錯誤を犯してゐるのだ。兎が、あら! と言ひ、さうして、いやな顔をしても、狸には一向に気がつかない。狸には、その、あら! といふ叫びも、狸の不意の訪問に驚き、かつは喜悦して、おのづから発せられた処女の無邪気な声の如くに思はれ、ぞくぞく嬉しく、また兎の眉をひそめた表情をも、これは自分の先日のボウボウ山の災難に、心を痛めてゐるのに違ひ無いと解し、
「や、ありがたう。」とお見舞ひも何も言はれぬくせに、こちらから御礼を述べ、「心配無用だよ。もう大丈夫だ。おれには神さまがついてゐるんだ。運がいいのだ。あんなボウボウ山なんて屁の河童さ。河童の肉は、うまいさうで。何とかして、そのうち食べてみようと思つてゐるんだがね。それは余談だが、しかし、あの時は、驚いたよ。何せどうも、たいへんな火勢だつたからね。お前のはうは、どうだつたね。べつに怪我も無い様子だが、よくあの火の中を無事で逃げて来られたね。」
「無事でもないわよ。」と兎はつんとすねて見せて、「あなたつたら、ひどいぢやないの。あのたいへんな火事場に、私ひとりを置いてどんどん逃げて行つてしまふんだもの。私は煙にむせて、もう少しで死ぬところだつたのよ。私は、あなたを恨んだわ。やつぱりあんな時に、つい本心といふものがあらはれるものらしいのね。私には、もう、あなたの本心といふものが、こんど、はつきりわかつたわ。」
「すまねえ。かんにんしてくれ。実はおれも、ひどい火傷をして、おれには、ひよつとしたら神さまも何もついてゐねえのかも知れない、さんざんの目に遭つちやつたんだ。お前はどうなつたか、決してそれを忘れてゐたわけぢやなかつたんだが、何せどうも、たちまちおれの背中が熱くなつて、お前を助けに行くひまも何も無かつたんだよ。わかつてくれねえかなあ。おれは決して不実な男ぢやねえのだ。火傷つてやつも、なかなか馬鹿にできねえものだぜ。それに、あの、仙金膏とか、疝気膏とか、あいつあ、いけない。いやもう、ひどい薬だ。色黒にも何もききやしない。」
「色黒?」
「いや、何。どろりとした黒い薬でね、こいつあ、強い薬なんだ。お前によく似た、小さい、奇妙な野郎が薬代は要らねえ、と言ふから、おれもつい、ものはためしだと思つて、塗つてもらふ事にしたのだが、いやはやどうも、ただの薬つてのも、あれはお前、気をつけたはうがいいぜ、油断も何もなりやしねえ、おれはもう頭のてつぺんからキリキリと小さい竜巻が立ち昇つたやうな気がして、どうとばかりに倒れたんだ。」
「ふん、」と兎は軽蔑し、「自業自得ぢやないの。ケチンボだから罰が当つたんだわ。ただの薬だから、ためしてみたなんて、よくもまあそんな下品な事を、恥づかしくもなく言へたものねえ。」
「ひでえ事を言ふ。」と狸は低い声で言ひ、けれども、別段何も感じないらしく、ただもう好きなひとの傍にゐるといふ幸福感にぬくぬくとあたたまつてゐる様子で、どつしりと腰を落ちつけ、死魚のやうに濁つた眼であたりを見廻し、小虫を拾つて食べたりしながら、「しかし、おれは運のいい男だなあ。どんな目に遭つても、死にやしない。神さまがついてゐるのかも知れねえ。お前も無事でよかつたが、おれも何といふ事もなく火傷がなほつて、かうしてまた二人でのんびり話が出来るんだものなあ。ああ、まるで夢のやうだ。」
 兎はもうさつきから、早く帰つてもらひたくてたまらなかつた。いやでいやで、死にさうな気持。何とかしてこの自分の庵の附近から去つてもらひたくて、またもや悪魔的の一計を案出する。
「ね、あなたはこの河口湖に、そりやおいしい鮒がうようよゐる事をご存じ?」
「知らねえ。ほんとかね。」と狸は、たちまち眼をかがやかして、「おれが三つの時、おふくろが鮒を一匹捕つて来ておれに食べさせてくれた事があつたけれども、あれはおいしい。おれはどうも、不器用といふわけではないが、決してさういふわけではないが、鮒なんて水の中のものを捕へる事が出来ねえので、どうも、あいつはおいしいといふ事だけは知つてゐながら、それ以来三十何年間、いや、はははは、つい兄の口真似をしちやつた。兄も鮒は好きでなあ。」
「さうですかね。」と兎は上の空で合槌を打ち、「私はどうも、鮒など食べたくもないけれど、でも、あなたがそんなにお好きなのならば、これから一緒に捕りに行つてあげてもいいわよ。」
「さうかい。」と狸はほくほくして、「でも、あの鮒つてやつは、素早いもんでなあ、おれはあいつを捕へようとして、も少しで土左衛門になりかけた事があるけれども、」とつい自分の過去の失態を告白し、「お前に何かいい方法があるのかね。」
「網で掬つたら、わけは無いわ。あの※[#「盧+鳥」、第3水準1−94−73]※[#「茲+鳥」、第3水準1−94−66]島《うがしま》の岸にこのごろとても大きい鮒が集つてゐるのよ。ね、行きませう。あなた、舟は? 漕げるの?」
「うむ、」幽かな溜息をついて、「漕げないことも無いがね。その気になりや、なあに。」と苦しい法螺を吹いた。
「漕げるの?」と兎は、それが法螺だといふ事を知つてゐながら、わざと信じた振りをして、「ぢや、ちやうどいいわ。私にはね、小さい舟が一艘あるけど、あんまり小さすぎて私たちふたりは乗れないの。それに何せ薄い板切れでいい加減に作つた舟だから、水がしみ込んで来て危いのよ。でも、私なんかどうなつたつて、あなたの身にもしもの事があつてはいけないから、あなたの舟をこれから、ふたりで一緒に力を合せて作りませうよ。板切れの舟は危いから、もつと岩乗に、泥をこねつて作りませうよ。」
「すまねえなあ。おれはもう、泣くぜ。泣かしてくれ。おれはどうしてこんなに涙もろいか。」と言つて嘘泣きをしながら、「ついでにお前ひとりで、その岩乗ないい舟を作つてくれないか。な、たのむよ。」と抜からず横着な申し出をして、「おれは恩に着るぜ。お前がそのおれの岩乗な舟を作つてくれてゐる間に、おれは、ちよつとお弁当をこさへよう。おれはきつと立派な炊事係りになれるだらうと思ふんだ。」
「さうね。」と兎は、この狸の勝手な意見をも信じた振りして素直に首肯く。さうして狸は、ああ世の中なんて甘いもんだとほくそ笑む。この間一髪に於いて、狸の悲運は決定せられた。自分の出鱈目を何でも信じてくれる者の胸中には、しばしば何かのおそるべき悪計が蔵せられてゐるものだと云ふ事を、迂愚の狸は知らなかつた。調子がいいぞ、とにやにやしてゐる。
 ふたりはそろつて湖畔に出る。白い河口湖には波ひとつ無い。兎はさつそく泥をこねて、所謂岩乗な、いい舟の製作にとりかかり、狸は、すまねえ、すまねえ、と言ひながらあちこち飛び廻つて専ら自分のお弁当の内容調合に腐心し、夕風が微かに吹き起つて湖面一ぱいに小さい波が立つて来た頃、粘土の小さい舟が、つやつやと鋼鉄色に輝いて進水した。
「ふむ、悪くない。」と狸は、はしやいで、石油鑵ぐらゐの大きさの、れいのお弁当箱をまづ舟に積み込み、「お前は、しかし、ずいぶん器用な娘だねえ。またたく間にこんな綺麗な舟一艘つくり上げてしまふのだからねえ。神技だ。」と歯の浮くやうな見え透いたお世辞を言ひ、このやうに器用な働き者を女房にしたら、或いはおれは、女房の働きに依つて遊んでゐながら贅沢ができるかも知れないなどと、色気のほかにいまはむらむら慾気さへ出て来て、いよいよこれは何としてもこの女にくつついて一生はなれぬ事だ、とひそかに覚悟のほぞを固めて、よいしよと泥の舟に乗り、「お前はきつと舟を漕ぐのも上手だらうねえ。おれだつて、舟の漕ぎ方くらゐ知らないわけでは、まさか、そんな、知らないと云ふわけでは決して無いんだが、けふはひとつ、わが女房のお手並を拝見したい。」いやに言葉遣ひが図々しくなつて来た。「おれも昔は、舟の漕ぎ方にかけては名人とか、または達者とか言はれたものだが、けふはまあ寝転んで拝見といふ事にしようかな。かまはないから、おれの舟の舳を、お前の舟の艫《とも》にゆはへ附けておくれ。舟も仲良くぴつたりくつついて、死なばもろとも、見捨てちやいやよ。」などといやらしく、きざつたらしい事を言つてぐつたり泥舟の底に寝そべる。
 兎は、舟をゆはへ附けよと言はれて、さてはこの馬鹿も何か感づいたかな? とぎよつとして狸の顔つきを盗み見たが、何の事は無い、狸は鼻の下を長くしてにやにや笑ひながら、もはや夢路をたどつてゐる。鮒がとれたら起してくれ。あいつあ、うめえからなあ。おれは三十七だよ。などと馬鹿な寝言を言つてゐる。兎は、ふんと笑つて狸の泥舟を兎の舟につないで、それから、櫂でぱちやと水の面を撃つ。するすると二艘の舟は岸を離れる。
 ※[#「盧+鳥」、第3水準1−94−73]※[#「茲+鳥」、第3水準1−94−66]島《うがしま》の松林は夕陽を浴びて火事のやうだ。ここでちよつと作者は物識り振るが、この島の松林を写生して図案化したのが、煙草の「敷島」の箱に描かれてある、あれだといふ話だ。たしかな人から聞いたのだから、読者も信じて損は無からう。もつとも、いまはもう「敷島」なんて煙草は無くなつてゐるから、若い読者には何の興味も無い話である。つまらない知識を振りまはしたものだ。とかく識つたかぶりは、このやうな馬鹿らしい結果に終る。まあ、生れて三十何年以上にもなる読者だけが、ああ、あの松か、と芸者遊びの記憶なんかと一緒にぼんやり思ひ出して、つまらなさうな顔をするくらゐが関の山であらうか。
 さて兎は、その※[#「盧+鳥」、第3水準1−94−73]※[#「茲+鳥」、第3水準1−94−66]島の夕景をうつとり望見して、
「おお、いい景色。」と呟く。これは如何にも奇怪である。どんな極悪人でも、自分がこれから残虐の犯罪を行はうといふその直前に於いて、山水の美にうつとり見とれるほどの余裕なんて無いやうに思はれるが、しかし、この十六歳の美しい処女は、眼を細めて島の夕景を観賞してゐる。まことに無邪気と悪魔とは紙一重である。苦労を知らぬわがままな処女の、へどが出るやうな気障つたらしい姿態に対して、ああ青春は純真だ、なんて言つて垂涎してゐる男たちは、気をつけるがよい。その人たちの所謂「青春の純真」とかいふものは、しばしばこの兎の例に於けるが如く、その胸中に殺意と陶酔が隣合せて住んでゐても平然たる、何が何やらわからぬ官能のごちやまぜの乱舞である。危険この上ないビールの泡だ。皮膚感覚が倫理を覆つてゐる状態、これを低能あるいは悪魔といふ。ひところ世界中に流行したアメリカ映画、あれには、こんな所謂「純真」な雄や雌がたくさん出て来て、皮膚感触をもてあまして擽つた
前へ 次へ
全15ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング