である。
 お鈴さんは静かにお酒とお肴を持ち運んで来て、
「ごゆつくり。」と言つて立ち去る。
 お爺さんはお酒をひとつ手酌で飲んで、また庭の清水を眺める。お爺さんは、所謂お酒飲みではない。一杯だけで、陶然と酔ふ。箸を持つて、お膳のたけのこを一つだけつまんで食べる。素敵においしい。しかし、お爺さんは、大食ひではない。それだけで箸を置く。
 襖があいて、お鈴さんがお酒のおかはりと、別な肴を持つて来る。お爺さんの前に坐つて、
「いかが?」とお酒をすすめる。
「いや、もうたくさん。しかし、これは、よいお酒だ。」お世辞を言つたのではない。思はず、それが口に出たのだ。
「お気に召しましたか。笹の露です。」
「よすぎる。」
「え?」
「よすぎる。」
 お爺さんとお鈴さんの会話を寝ながら聞いてゐて、お照さんは微笑んだ。
「あら、お照さんが笑つてゐるわ。何か言ひたいのでせうけれど。」
 お照さんは首を振つた。
「言へなくたつて、いいのさ。さうだね?」とお爺さんは、はじめてお照さんのはうを向いて話かける。
 お照さんは、眼をぱちぱちさせて、嬉しさうに二三度うなづく。
「さ、それでは失礼しよう。また来る。」
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