つたく無邪気の悪戯のつもりで、こんなひとのわるい冗談をやらかしたのか。いづれにしても、あの真の上品《じやうぼん》の筈の乙姫が、こんな始末の悪いお土産を与へたとは、不可解きはまる事である。パンドラの箱の中には、疾病、恐怖、怨恨、哀愁、疑惑、嫉妬、憤怒、憎悪、呪咀、焦慮、後悔、卑屈、貪慾、虚偽、怠惰、暴行などのあらゆる不吉の妖魔がはひつてゐて、パンドラがその箱をそつとあけると同時に、羽蟻の大群の如く一斉に飛び出し、この世の隅から隅まで残るくまなくはびこるに到つたといふ事になつてゐるが、しかし、呆然たるパンドラが、うなだれて、そのからつぽの箱の底を眺めた時、その底の闇に一点の星のやうに輝いてゐる小さな宝石を見つけたといふではないか。さうして、その宝石には、なんと、「希望」といふ字がしたためられてゐたといふ。これに依つて、パンドラの蒼白の頬にも、幽かに血の色がのぼつたといふ。それ以来、人間は、いかなる苦痛の妖魔に襲はれても、この「希望」に依つて、勇気を得、困難に堪へ忍ぶ事が出来るやうになつたといふ。それに較べて、この竜宮のお土産は、愛嬌も何もない。ただ、煙だ。さうして、たちまち三百歳のお爺さんである。よしんば、その「希望」の星が貝殻の底に残つてゐたとしたところで、浦島さんは既に三百歳である。三百歳のお爺さんに「希望」を与へたつて、それは悪ふざけに似てゐる。どだい、無理だ。それでは、ここで一つ、れいの「聖諦」を与へてみたらどうか。しかし、相手は三百歳である。いまさら、そんな気取つたきざつたらしいものを与へなくたつて、人間三百歳にもなりや、いい加減、諦めてゐるよ。結局、何もかも駄目である。救済の手の差伸べやうが無い。どうにも、これはひどいお土産をもらつて来たものだ。しかし、ここで匙を投げたら、或いは、日本のお伽噺はギリシヤ神話よりも残酷である。などと外国人に言はれるかも知れない。それはいかにも無念な事だ。また、あのなつかしい竜宮の名誉にかけても、何とかして、この不可解のお土産に、貴い意義を発見したいものである。いかに竜宮の数日が陸上の数百年に当るとは言へ、何もその歳月を、ややこしいお土産などにして浦島に持たせてよこさなくてもよささうなものだ。浦島が竜宮から海の上に浮かび出たとたんに、白髪の三百歳に変化したといふのなら、まだ話がわかる。また、乙姫のお情で、浦島をいつまでも青年にして置くつもりだつたのならば、そんな危険な「あけてはならぬ」品物を、わざわざ浦島に持たせてよこす必要は無い。竜宮のどこかの隅に捨てて置いたつていいぢやないか。それとも、お前のたれた糞尿は、お前が持つて帰つたらいいだらう、といふ意味なのだらうか。それでは、何だかひどく下等な「面当《つらあ》て」みたいだ。まさかあの聖諦の乙姫が、そんな長屋の夫婦喧嘩みたいな事をたくらむとは考へられない。どうも、わからぬ。私は、それに就いて永い間、思案した。さうして、このごろに到つて、やうやく少しわかつて来たやうな気がして来たのである。
つまり、私たちは、浦島の三百歳が、浦島にとつて不幸であつたといふ先入感に依つて誤られて来たのである。絵本にも、浦島は三百歳になつて、それから、「実に、悲惨な身の上になつたものさ。気の毒だ。」などといふやうな事は書かれてゐない。
[#ここから2字下げ、ゴシック体]
タチマチ シラガノ オヂイサン
[#ここで字下げ終わり]
それでおしまひである。気の毒だ、馬鹿だ、などといふのは、私たち俗人の勝手な盲断に過ぎない。三百歳になつたのは、浦島にとつて、決して不幸ではなかつた[#「なかつた」に傍点]のだ。
貝殻の底に、「希望」の星があつて、それで救はれたなんてのは、考へてみるとちよつと少女趣味で、こしらへものの感じが無くもないやうな気もするが、浦島は、立ち昇る煙それ自体で救はれてゐるのである。貝殻の底には、何も残つてゐなくたつていい。そんなものは問題でないのだ。曰く、
[#ここから2字下げ]
年月は、人間の救ひである。
忘却は、人間の救ひである。
[#ここで字下げ終わり]
竜宮の高貴なもてなしも、この素張らしいお土産に依つて、まさに最高潮に達した観がある。思ひ出は、遠くへだたるほど美しいといふではないか。しかも、その三百年の招来をさへ、浦島自身の気分にゆだねた。ここに到つても、浦島は、乙姫から無限の許可を得てゐたのである。淋しくなかつたら、浦島は、貝殻をあけて見るやうな事はしないだらう。どう仕様も無く、この貝殻一つに救ひを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。これ以上の説明はよさう。日本のお伽噺には、このやうな深い慈悲がある。
浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。
[#改頁]
カチカチ山
カチカチ
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