事を、ふいと言つた。やはりこれも、爬虫類共通の宿命なのであらうか。いやいや、さうきめてしまふのは、この善良の亀に対して気の毒だ。亀自身も以前、浦島に向つて、「しかし、私は、エデンの園の蛇ではない、はばかりながら日本の亀だ。」と豪語してゐる。信じてやらなけりや可哀想だ。それにまた、この亀のこれまでの浦島に対する態度から判断しても、決してかのエデンの園の蛇の如く、佞奸邪智にして、恐ろしい破滅の誘惑を囁くやうな性質のものでは無いやうに思はれる。それどころか、所謂さつきの鯉の吹流しの、愛すべき多弁家に過ぎないのではないかと思はれる。つまり、何の悪気も無かつたのだ。私は、そのやうに解したい。亀は、さらにまた言葉をつづけて、「でも、その貝は、あけて見ないはうがいいかも知れません。きつとその中には竜宮の精気みたいなものがこもつてゐるのでせうから。それを陸上であけたら、奇怪な蜃気楼が立ち昇り、あなたを発狂させたり何かするかも知れないし、或いはまた、海の潮が噴出して大洪水を起す事なども無いとは限らないし、とにかく海底の酸素を陸上に放散させては、どうせ、ろくな事が起らないやうな気がしますよ。」と真面目に言ふ。
 浦島は亀の深切を信じた。
「さうかも知れないね。あんな高貴な竜宮の雰囲気が、もしこの貝の中にひめられてあるとしたら、陸上の俗悪な空気にふれた時には、戸惑ひして、大爆発でも起すかも知れない。まあ、これはかうして、いつまでも大事に、家の宝として保存して置くことにしよう。」
 既に海上に浮ぶ。太陽の光がまぶしい。ふるさとの浜が見える。浦島はいまは一刻も早く、わが家に駈け込み、父母弟妹、また大勢の使用人たちを集めて、つぶさに竜宮の模様を物語り、冒険とは信じる力だ、この世の風流なんてものはケチくさい猿真似だ、正統といふのは、あれは通俗の別称さ、わかるかね、真の上品《じやうぼん》といふのは聖諦の境地さ、ただのあきらめぢや無いぜ、わかるかね、批評なんてうるさいものは無いんだ、無限に許されてゐるんだ、さうしてただ微笑があるだけだ、わかるかね、客を忘れてゐるのだ、わかるまい、などとそれこそ、たつたいま聞いて来たふうの新知識を、めちや苦茶に振りまはして、さうしてあの現実主義の弟のやつが、もし少しでも疑ふやうな顔つきを見せた時には、すなはちこの竜宮の美しいお土産をあいつの鼻先につきつけて、ぎやふんと参らせてやらう、と意気込み、亀に別離の挨拶するのも忘れて汀に飛び降り、あたふたと生家に向つて急けば、
[#ここから2字下げ、ゴシック体]
ドウシタンデセウ モトノサト
ドウシタンデセウ モトノイヘ
ミワタスカギリ アレノハラ
ヒトノカゲナク ミチモナク
マツフクカゼノ オトバカリ
[#ここで字下げ終わり]
 といふ段どりになるのである。浦島は、さんざん迷つた末に、たうとうかの竜宮のお土産の貝殻をあけて見るといふ事になるのであるが、これに就いて、あの亀が責任を負ふ必要はないやうに思はれる。「あけてはならぬ」と言はれると、なほ、あけて見たい誘惑を感ずると云ふ人間の弱点は、この浦島の物語に限らず、ギリシヤ神話のパンドラの箱の物語に於いても、それと同様の心理が取りあつかはれてゐるやうだ。しかし、あのパンドラの箱の場合は、はじめから神々の復讐が企図せられてゐたのである。「あけてはならぬ」といふ一言が、パンドラの好奇心を刺戟して、必ずや後日パンドラが、その箱をあけて見るにちがひないといふ意地悪い予想のもとに「あけるな」といふ禁制を宣告したのである。それに引きかへ、われわれの善良な亀は、まつたくの深切から浦島にそれを言つたのだ。あの時の亀の、余念なささうな言ひ方に依つても、それは信じていいと思ふ。あの亀は正直者だ。あの亀には責任が無い。それは私も確信をもつて証言できるのであるが、さて、もう一つ、ここに妙な腑に落ちない問題が残つてゐる。浦島は、その竜宮のお土産をあけて見ると、中から白い煙が立ち昇り、たちまち彼は三百歳だかのお爺さんになつて、だから、あけなきやよかつたのに、つまらない事になつた、お気の毒に、などといふところでおしまひになるのが、一般に伝へられてゐる「浦島さん」物語であるが、私はそれに就いて深い疑念にとらはれてゐる。するとこの竜宮のお土産も、あの人間のもろもろの禍《わざはひ》の種の充満したパンドラの箱の如く、乙姫の深刻な復讐、或いは懲罰の意を秘めた贈り物であつたのか。あのやうに何も言はず、ただ微笑して無限に許してゐるやうな素振りを見せながらも、皮裏にひそかに峻酷の陽秋を蔵してゐて、浦島のわがままを一つも許さず、厳罰を課する意味であの貝殻を与へたのか。いや、それほど極端の悲観論を称へずとも、或いは、貴人といふものは、しばしば、むごい嘲弄を平気でするものであるから、乙姫もま
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