いのかも知れぬ。生れたばかりの赤ん坊の足の裏と同じやうにやはらかくて綺麗なのに違ひない、と思へば、これといふ目立つた粉飾一つも施してゐない乙姫のからだが、いよいよ真の気品を有してゐるものの如く、奥ゆかしく思はれて来た。竜宮に来てみてよかつた、と次第にこのたびの冒険に感謝したいやうな気持が起つて来て、うつとり乙姫のあとについて歩いてゐると、
「どうです、悪くないでせう。」と亀は、低く浦島の耳元に囁き、鰭でもつて浦島の横腹をちよこちよことくすぐつた。
「ああ、なに、」と浦島は狼狽して、「この花は、この紫の花は綺麗だね。」と別の事を言つた。
「これですか。」と亀はつまらなささうに、「これは海の桜桃の花です。ちよつと菫に似てゐますね。この花びらを食べると、それは気持よく酔ひますよ。竜宮のお酒です。それから、あの岩のやうなもの、あれは藻です。何万年も経つてゐるので、こんな岩みたいにかたまつてゐますが、でも、羊羹よりも柔いくらゐのものです。あれは、陸上のどんなごちそうよりもおいしいですよ。岩によつて一つづつみんな味はひが違ひます。竜宮ではこの藻を食べて、花びらで酔ひ、のどが乾けば桜桃を含み、乙姫さまの琴の音に聞き惚れ、生きてゐる花吹雪のやうな小魚たちの舞ひを眺めて暮してゐるのです。どうですか、竜宮は歌と舞ひと、美食と酒の国だと私はお誘ひする時にあなたに申し上げた筈ですが、どうですか、御想像と違ひましたか?」
 浦島は答へず、深刻な苦笑をした。
「わかつてゐますよ。あなたの御想像は、まあドンヂヤンドンヂヤンの大騒ぎで、大きなお皿に鯛のさしみやら鮪のさしみ、赤い着物を着た娘つ子の手踊り、さうしてやたらに金銀珊瑚綾錦のたぐひが、――」
「まさか、」と浦島もさすがに少し不愉快さうな顔になり、「私はそれほど卑俗な男ではありません。しかし、私は自分を孤独な男だと思つてゐた事などありましたが、ここへ来て真に孤独なお方にお目にかかり、私のいままでの気取つた生活が恥かしくてならないのです。」
「あのかたの事ですか?」と亀は小声で言つて無作法に乙姫のはうを顎でしやくり、「あのかたは、何も孤独ぢやありませんよ。平気なものです。野心があるから、孤独なんて事を気に病むので、他の世界の事なんかてんで問題にしてなかつたら、百年千年ひとりでゐたつて楽なものです。それこそ、れいの批評が気にならない者にとつてはね。ところで、あなたは、どこへ行かうてんですか?」
「いや、なに、べつに、」と浦島は、意外の問に驚き、「だつて、お前、あのお方が、――」
「乙姫はべつにあなたを、どこかへ案内しようとしてゐるわけぢやありません。あのかたは、もう、あなたの事なんか忘れてゐますよ。あのかたは、これからご自分のお部屋に帰るのでせう。しつかりして下さい。ここが竜宮なんです、この場所が。ほかにどこも、ご案内したいやうなところもありません。まあ、ここで、お好きなやうにして遊んでゐるのですね。これだけぢや、不足なんですか。」
「いぢめないでくれよ。私は、いつたいどうしたらいいんだ。」と浦島はべそをかいて、「だつて、あのお方がお迎へに出て下さつてゐたので、べつに私は自惚れたわけぢやないけど、あのお方のあとについて行くのが礼儀だと思つたんだよ。べつに不足だなんて考へてやしないよ。それだのに私に何か、別ないやらしい下心でもあるみたいなへんな言ひ方をするんだもの。お前は、じつさい意地が悪いよ。ひどいぢやないか。私は生れてから、こんなに体裁《ていさい》の悪い思ひをした事は無いよ。本当にひどいよ。」
「そんなに気にしちやいけない。乙姫は、おつとりしたものです。そりや、陸上からはるばるたづねて来た珍客ですもの、それにあなたは、私の恩人ですからね、お出迎へするのは当り前ですよ。さらにまた、あなたは、気持はさつぱりしてゐるし、男つぷりは佳し、と来てゐるから。いや、これは冗談ですよ、へんにまた自惚れられちやかなはない。とにかく、乙姫はご自分の家へやつて来た珍客を階段まで出迎へて、さうして安心して、あとはあなたのお気の向くままに勝手に幾日でもここで遊んでいらつしやるやうにと、素知らぬ振りしてああしてご自分のお部屋に引上げて行くといふわけのものぢやないんですかね。実は私たちにも、乙姫の考へてゐる事はあまりよく判らないのです。何せ、どうにも、おつとりしてゐますから。」
「いや、さう言はれてみると、私には、少し判りさうな気がして来たよ。お前の推察も、だいたいに於いて間違ひはなささうだ。つまり、こんなのが、真の貴人の接待法なのかも知れない。客を迎へて客を忘れる。しかも客の身辺には美酒珍味が全く無雑作に並べ置かれてある。歌舞音曲も別段客をもてなさうといふ露骨な意図でもつて行はれるのではない。乙姫は誰に聞かせようといふ心も無くて琴を
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