亀と並んで正殿の階段の前に立つてゐた。階段とは言つても、段々が一つづつ分明になつてゐるわけではなく、灰色の鈍く光る小さい珠の敷きつめられたゆるい傾斜の坂のやうなものである。
「これも真珠かね。」と浦島は小声で尋ねる。
 亀は、あはれむやうな眼で浦島の顔を見て、
「珠を見れば、何でも真珠だ。真珠は、捨てられて、あんなに高い山になつてゐるぢやありませんか。まあ、ちよつとその珠を手で掬つてごらんなさい。」
 浦島は言はれたとほりに両手で珠を掬はうとすると、ひやりと冷たい。
「あ、霰《あられ》だ!」
「冗談ぢやない。ついでにそれを口の中に入れてごらん。」
 浦島は素直に、その氷のやうに冷たい珠を、五つ六つ頬張つた。
「うまい。」
「さうでせう? これは、海の桜桃です。これを食べると三百年間、老いる事が無いのです。」
「さうか、いくつ食べても同じ事か。」と風流人の浦島も、ついたしなみを忘れて、もつと掬つて食べようといふ気勢を示した。「私はどうも、老醜といふものがきらひでね。死ぬのは、そんなにこはくもないけれど、どうも老醜だけは私の趣味に合はない。もつと、食べて見ようかしら。」
「笑つてゐますよ。上をごらんなさい。乙姫さまがお迎へに出てゐます。やあ、けふはまた一段とお綺麗。」
 桜桃の坂の尽きるところに、青い薄布を身にまとつた小柄の女性が幽かに笑ひながら立つてゐる。薄布をとほして真白い肌が見える。浦島はあわてて眼をそらし、
「乙姫か。」と亀に囁く。浦島の顔は真赤である。
「きまつてゐるぢやありませんか。何をへどもどしてゐるのです。さあ、早く御挨拶をなさい。」
 浦島はいよいよまごつき、
「でも、何と言つたらいいんだい。私のやうなものが名乗りを挙げてみたつて、どうにもならんし、どだいどうも、私たちの訪問は唐突だよ。意味が無いよ。帰らうよ。」と上級の宿命の筈の浦島も、乙姫の前では、すつかり卑屈になつて逃支度をはじめた。
「乙姫さまは、あなたの事なんか、もうとうにご存じですよ。階前万里といふぢやありませんか。観念して、ただていねいにお辞儀しておけばいいのです。また、たとひ乙姫さまが、あなたの事を何もご存じ無くつたつて、乙姫さまは警戒なんてケチくさい事はてんで知らないお方ですから、何も斟酌には及びません。遊びに来ましたよ、と言へばいい。」
「まさか、そんな失礼な。ああ、笑つていらつしやる。とにかく、お辞儀をしよう。」
 浦島は、両手が自分の足の爪先にとどくほどのていねいなお辞儀をした。
 亀は、はらはらして、
「ていねいすぎる。いやになるね。あなたは私の恩人ぢやないか。も少し威厳のある態度を示して下さいよ。へたへたと最敬礼なんかして、上品《じやうぼん》もくそもあつたものぢやない。それ、乙姫さまのお招きだ。行きませう。さあ、ちやんと胸を張つて、おれは日本一の好男子で、さうして、最上級の風流人だといふやうな顔をして威張つて歩くのですよ。あなたは私たちに対してはひどく高慢な乙な構へ方をするけれども、女には、からきし意気地が無いんですね。」
「いやいや、高貴なお方には、それ相当の礼を尽さなければ。」と緊張のあまり声がしやがれて、足がもつれ、よろよろと千鳥足で階段を昇り、見渡すと、そこは万畳敷とでも云つていいくらゐの広い座敷になつてゐる。いや、座敷といふよりは、庭園と言つた方が適切かも知れない。どこから射して来るのか樹陰のやうな緑色の光線を受けて、模糊と霞んでゐるその万畳敷とでも言ふべき広場には、やはり霰のやうな小粒の珠が敷きつめられ、ところどころに黒い岩が秩序無くころがつてゐて、さうしてそれつきりである。屋根はもちろん、柱一本も無く、見渡す限り廃墟と言つていいくらゐの荒涼たる大広場である。気をつけて見ると、それでも小粒の珠のすきまから、ちよいちよい紫色の小さい花が顔を出してゐるのが見えて、それがまた、かへつて淋しさを添へ、これが幽邃の極といふのかも知れないが、しかし、よくもまあ、こんな心細いやうな場所で生活が出来るものだ、と感歎の溜息に似たものがふうと出て、さらにまた思ひをあらたにして乙姫の顔をそつと盗み見た。
 乙姫は無言で、くるりとうしろを向き、そろそろと歩き出す。その時はじめて気がついたのであるが、乙姫の背後には、めだかよりも、もつと小さい金色の魚が無数にかたまつてぴらぴら泳いで、乙姫が歩けばそのとほりに従つて移動し、そのさまは金色の雨がたえず乙姫の身辺に降り注いでゐるやうにも見えて、さすがにこの世のものならぬ貴い気配が感ぜられた。
 乙姫は身にまとつてゐる薄布をなびかせ裸足で歩いてゐるが、よく見ると、その青白い小さい足は、下の小粒の珠を踏んではゐない。足の裏と珠との間がほんのわづか隙《す》いてゐる。あの足の裏は、いまだいちども、ものを踏んだ事が無
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