でゐるが、もとをただせば大金持の三男坊で、父母の期待にそむいて、これといふ職業も持たず、ぼんやり晴耕雨読などといふ生活をしてゐるうちに病気になつたりして、このごろは、父母をはじめ親戚一同も、これを病弱の馬鹿の困り者と称してあきらめ、月々の暮しに困らぬ小額の金を仕送りしてゐるといふやうな状態なのである。さればこそ、こんな世捨人みたいな生活も可能なのである。いかに、草の庵とはいへ、まあ、結構な身分と申さざるを得ないであらう。さうして、そんな結構な身分の者に限つて、あまりひとの役に立たぬものである。からだが弱いのは事実のやうであるが、しかし、寝てゐるほどの病人では無いのだから、何か一つくらゐ積極的仕事の出来ぬわけはない筈である。けれども、このお爺さんは何もしない。本だけは、ずいぶんたくさん読んでゐるやうだが、読み次第わすれて行くのか、自分の読んだ事を人に語つて知らせるといふわけでもない。ただ、ぼんやりしてゐる。これだけでも、既に世間的価値がゼロに近いのに、さらにこのお爺さんには子供が無い。結婚してもう十年以上にもなるのだが、未だ世継が無いのである。これでもう完全に彼は、世間人としての義務を何一つ果してゐない、といふ事になる。こんな張合の無い亭主に、よくもまあ十何年も連添うて来た細君といふのは、どんな女か、多少の興をそそられる。しかし、その草庵の垣根越しに、そつと覗いてみた者は、なあんだ、とがつかりさせられる。実に何とも、つまらない女だ。色がまつくろで、眼はぎよろりとして、手は皺だらけで大きく、その手をだらりと前にさげて少し腰をかがめていそがしげに庭を歩いてゐるさまを見ると、「お爺さん」よりも年上ではないかと思はれるくらゐである。しかし、今年三十三の厄年だといふ。このひとは、もと「お爺さん」の生家に召使はれてゐたのであるが、病弱のお爺さんの世話を受持たされて、いつしかその生涯を受持つやうになつてしまつたのである。無学である。
「さあ、下着類を皆、脱いでここへ出して下さい。洗ひます。」と強く命令するやうに言ふ。
「この次。」お爺さんは、机に頬杖をついて低く答へる。お爺さんは、いつも、ひどく低い声で言ふ。しかも、言葉の後半は、口の中で澱んで、ああ、とか、うう、とかいふやうにしか聞えない。連添うて十何年になるお婆さんにさへ、このお爺さんの言ふ事がよく聞きとれない。いはんや、他人に於いてをや。どうせ世捨人同然のひとなのだから、自分の言ふ事が他人にわかつたつて、わからなくたつてどうだつていいやうなものかも知れないが、定職にも就かず、読書はしても別段その知識でもつて著述などしようとする気配も見えず、さうして結婚後十数年経過してゐるのに一人の子供もまうけず、さうして、その上、日常の会話に於いてさへ、はつきり言ふ手数を省いて、後半を口の中でむにやむにや言つてすますとは、その骨惜しみと言はうか何と言はうか、とにかくその消極性は言語に絶するものがあるやうに思はれる。
「早く出して下さいよ。ほら、襦袢の襟なんか、油光りしてゐるぢやありませんか。」
「この次。」やはり半分は口の中で、ぼそりと言ふ。
「え? 何ですつて? わかるやうに言つて下さい。」
「この次。」と頬杖をついたまま、にこりともせずお婆さんの顔を、まじまじと見つめながら、こんどはやや明瞭に言ふ。「けふは寒い。」
「もう冬ですもの。けふだけぢやなく、あしたもあさつても寒いにきまつてゐます。」と子供を叱るやうな口調で言ひ、「そんな工合ひに家の中で、じつと炉傍に坐つてゐる人と、井戸端へ出て洗濯してゐる人と、どつちが寒いか知つてゐますか。」
「わからない。」と幽かに笑つて答へる。「お前の井戸端は習慣になつてゐるから。」
「冗談ぢやありません。」とお婆さんは顔をしかめて、「私だつて何も、洗濯をしに、この世に生れて来たわけぢやないんですよ。」
「さうかい。」と言つて、すましてゐる。
「さあ、早く脱いで寄こして下さいよ。代りの下着類はいつさいその押入の中にはひつてゐますから。」
「風邪をひく。」
「ぢやあ、よござんす。」いまいましさうに言ひ切つてお婆さんは退却する。
ここは東北の仙台郊外、愛宕山の麓、広瀬川の急流に臨んだ大竹藪の中である。仙台地方には昔から、雀が多かつたのか、仙台笹とかいふ紋所には、雀が二羽図案化されてゐるし、また、芝居の先代萩には雀が千両役者以上の重要な役として登場するのは誰しもご存じの事と思ふ。また、昨年、私が仙台地方を旅行した時にも、その土地の一友人から仙台地方の古い童謡として次のやうな歌を紹介せられた。
[#ここから2字下げ、ゴシック体]
カゴメ カゴメ
カゴノナカノ スズメ
イツ イツ デハル
[#ここで字下げ終わり]
この歌は、しかし、仙台地方に限らず、日本全国の子供の遊び歌に
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